◎老婆を見送る(599)
朝方に目を覚ますと、最初にため息を吐(つ)いた。
「あーあ」
毎日の日課を「ただこなす」だけの人生になってら。
そこで、家人との約束を思い出す。
「あーあと溜息をつくと、さらに幸運が逃げて行く。だから、それがため息にならぬように、ああで始まる歌を口ずさむこと」
それなら、まあ二つの内どっちかだな。
「あああ。川の流れのように・・・」か、「あああ。果てしない・・・」だ。
よって、すぐに「果てしない」と歌った。
眼が完全に醒めると、今度は自分に足りないものを考えた。
「俺みたいなオヤジのつまらん日常を癒してくれるのは、『ゆいメタルの笑顔』か『バンクーバーキャットのにゃー』だろうな」
でも、どちらも新しいコンテンツはほとんど期待できない情勢だ。
ここで冷静に戻る。
「それなら、まずはあのバーサンとお別れせねば」
そこで思い立って、この日は神社に参拝することにした。
太腿の異常な痛みが「原因不明」だと分かってからは、通院の度に「お供えの水」を枕元に置いて来たが、想定した通りに「十日で痛みが消えた」。
だが、バーサン自体はまだ傍にいるので、そろそろ「あの世」に向かって貰わんと。
既定路線通り、午後二時過ぎに出掛け、三時には神社に着いた。
車を降りる時に、自分なりの祈願をした。
「バーサン。俺はあんたの名前も知らんが、もう十分に駄々をこねただろ。ここでは他の者が歩いているから、今はその流れに従って前に進む時が来たんだよ」
(こういう時は、隣にその相手が「いる」と想像し、確信することが必要だ。)
神殿前はさすが休日で、参拝客が列をなしていた。
ガラス窓に映る私自身の姿を確認することも難しい。そんな状況だった。
そこに見取れたのは、「気のせい」という言い訳のつくものばかり。
「だが、もちろん、それでよい」
ここに来たのは、興味本位からではなく、死んでも自分がどこに進んだらよいか分からぬバーサンを見送ってやるためだ。
こういうことの実証は難しいから、自分自身が「信じる」他はない。
ただ、理由のない苦痛に襲われ、日に四度の鎮痛剤が必要だったのに、今はまったく痛みを感じない。理由のない痛みは理由なく消えた。
バーサン由来ではない方の循環器の不調が発生しているが、こちらはもちろん、医療で治せるだけ治す。
私が今も生きていられるのは、この世あの世の直感を総動員して、「早めに対策を打ち出す」ことを旨としているからだと思う。
「考えるな。感じて、行動せよ」。
次はついに六百日目の参拝になる。
「とりあえず百日詣でを目指そう」として始めた神社参拝だったが、ついに六年が経過した。一年に神社、寺社を参拝参詣すること百五十日だが、回数は神社のみをカウントしたものだから、およそ六年となる。
うち四年以上の間は、神社猫のトラに支えられた。
参拝を終え、車に向かう時には、「まるで俺は、あの世に先立った恋人の供養のためにここに来ているようだ」と感じた。
実際、「自分の居場所だ」と言わんばかりに膝の上に乗る「猫の感触」を今も忘れてはいない。私は動物の毛のアレルギー持ちなのだが、あの猫だけは何ともなかった。
ちなみに、この日はさしたる異変は無く、総て「気のせい」の範囲だった。
これは最も望ましいパターンとなる。