日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎老婆を見送る(599)

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令和三年九月十九日撮影。さしたる異変はなし。

◎老婆を見送る(599)

 朝方に目を覚ますと、最初にため息を吐(つ)いた。

 「あーあ」

 毎日の日課を「ただこなす」だけの人生になってら。

 そこで、家人との約束を思い出す。

 「あーあと溜息をつくと、さらに幸運が逃げて行く。だから、それがため息にならぬように、ああで始まる歌を口ずさむこと」

 それなら、まあ二つの内どっちかだな。

 「あああ。川の流れのように・・・」か、「あああ。果てしない・・・」だ。

 よって、すぐに「果てしない」と歌った。

 

 眼が完全に醒めると、今度は自分に足りないものを考えた。

 「俺みたいなオヤジのつまらん日常を癒してくれるのは、『ゆいメタルの笑顔』か『バンクーバーキャットのにゃー』だろうな」

 でも、どちらも新しいコンテンツはほとんど期待できない情勢だ。

 ここで冷静に戻る。

 「それなら、まずはあのバーサンとお別れせねば」

 そこで思い立って、この日は神社に参拝することにした。

 太腿の異常な痛みが「原因不明」だと分かってからは、通院の度に「お供えの水」を枕元に置いて来たが、想定した通りに「十日で痛みが消えた」。

 だが、バーサン自体はまだ傍にいるので、そろそろ「あの世」に向かって貰わんと。

 

 既定路線通り、午後二時過ぎに出掛け、三時には神社に着いた。

 車を降りる時に、自分なりの祈願をした。

 「バーサン。俺はあんたの名前も知らんが、もう十分に駄々をこねただろ。ここでは他の者が歩いているから、今はその流れに従って前に進む時が来たんだよ」

 (こういう時は、隣にその相手が「いる」と想像し、確信することが必要だ。)

 

 神殿前はさすが休日で、参拝客が列をなしていた。

 ガラス窓に映る私自身の姿を確認することも難しい。そんな状況だった。

 そこに見取れたのは、「気のせい」という言い訳のつくものばかり。

 「だが、もちろん、それでよい」

 ここに来たのは、興味本位からではなく、死んでも自分がどこに進んだらよいか分からぬバーサンを見送ってやるためだ。

 こういうことの実証は難しいから、自分自身が「信じる」他はない。

 ただ、理由のない苦痛に襲われ、日に四度の鎮痛剤が必要だったのに、今はまったく痛みを感じない。理由のない痛みは理由なく消えた。

 バーサン由来ではない方の循環器の不調が発生しているが、こちらはもちろん、医療で治せるだけ治す。

 

 私が今も生きていられるのは、この世あの世の直感を総動員して、「早めに対策を打ち出す」ことを旨としているからだと思う。

 「考えるな。感じて、行動せよ」。

 

 次はついに六百日目の参拝になる。

 「とりあえず百日詣でを目指そう」として始めた神社参拝だったが、ついに六年が経過した。一年に神社、寺社を参拝参詣すること百五十日だが、回数は神社のみをカウントしたものだから、およそ六年となる。

 うち四年以上の間は、神社猫のトラに支えられた。

 参拝を終え、車に向かう時には、「まるで俺は、あの世に先立った恋人の供養のためにここに来ているようだ」と感じた。

 実際、「自分の居場所だ」と言わんばかりに膝の上に乗る「猫の感触」を今も忘れてはいない。私は動物の毛のアレルギー持ちなのだが、あの猫だけは何ともなかった。

 

 ちなみに、この日はさしたる異変は無く、総て「気のせい」の範囲だった。

 これは最も望ましいパターンとなる。