日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

「泰葉る」とき

結婚してからダンナさんのことだけ見てきたのに、20何年か経ってみて、ダンナの方はそうでもないことに気付く。ダンナさんには仕事や、自分なりの、あるいは自分だけの人生の領域がある。
おまけに、外に女も作りやがっているし。

冗談じゃないよ。ワタシの人生は何なのさ。
これまでの暮らしのひとつ1つ、嫌だったことをカウントし始める。
ああ、あんなヤツはもうウンザリだ。ワタシはもうワタシのために生きよう、と思う。

子どもやダンナ、親など「誰かのために生きよう」と考えると、実は人生は楽なのだけれども、「自分のために生きる」ってのは難しい。
だいたい、「自分のため」ってどういうこと?
芸術や技術を磨くのは、一見、「自分のため」のようだけど、実際にやってみると、そうでもない。満足感など得られやしない。自分を磨くってのは、言うなれば常に「飢餓」の状態に近い状態ですからね。

ダンナを憎らしく思う気持ちと、分かって欲しい気持ちが混交し、自分が何を欲しているか自分でもわからない。
部屋に独り座り、わけもなくオイオイ泣いていたりする。

置かれている状況は、まったく身につまされます。
こういう時を、同じように経験しましたからね。

この女性が、逐一メディアの素材にされてしまうところは、可愛そうです。
一般人なら、しばらく一人だけの時間を持ち、何度も反芻しながらも、気持ちが静まるのを待つことができます。しかし、今の立場上そうはできないし、テレビは「もっとやれ」と言わんばかりに煽ります。
テレビ屋は、ネタを煽っておきながら「人騒がせはやめるべき」とか言いやがる(本当にムカツく)。

ああ、私はこの人の味方ですね。
表現の仕方は違いますが、毎日のように同じく「泰葉って」いますので。