◎中尊寺白山神社
これは正真正銘の煙玉。
向こう側が透けており、左右とずれがないので、「鳥居のごく近くに浮いていた」と判断できます。
直径が2メートルはありそうです。
なぜか神社の鳥居の外側では、煙玉がよく写ります。
九戸戦の直後、伊達政宗が羽柴秀次を案内し、ここまで連れて来ました。二人でこの地の神楽を見物した、と伝えられます。
伊達政宗は秀吉に睨まれていたので、秀次を味方につけるべく、ご機嫌取りをしたわけです。
秀次はこの年の秋に関白になりました。
ところが、秀吉に実子が出来ると、秀次は疎まれるようになり、最後は殺されてしまいます。
晩年の秀吉はまさに狂人の域にあり、家来の妻が美人であることに気付くと、無理やり離縁させ、その女を寝所に入れました。
それだけでなく、その女の娘(十歳)も同時に寝所に入れ、妾としました。(側室の扱いではなく、ただの手慰みです。)
夫については、トコトン左遷して遠くに追いやるのですが、結局、ささいな理由を付け、切腹させます。
なにも殺すことはないだろうに。
まあ、甥を容赦なく殺す人格ですから、当たり前なのかもしれません。
こういうケースが1つ2つではないところが「狂ってる」ところです。
羽柴秀吉が「豊臣秀吉」と記されるようになったのは、江戸の中期に『太閤記』が成立してから。
(豊臣は姓(かばね)なので、呼称として使われることはありません。)
秀吉伝の多くは、この頃に作られたもので、まったくの作り話です。
鳴かぬなら 親族一同 皆殺し
(生きていたけりゃ 娘を差し出せ)と続きます。
一定の体力を確保できないと、本格的侍小説を書くのは無理です。
薬を飲んだり飲まなかったり、と体力調整の日々が続きます。
神社で祈願するのは「せめてあと十パーセントの体力」になってます。