日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎鳥居観音から高麗神社 (349)

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◎鳥居観音から高麗神社 (349)
 どうにも夢見が悪いので、厄落としに行きました。
 まずは名栗の鳥居観音でお焼香をしました。
 高校の同級生から、母の「ご供養に」とお線香を頂戴しましたので、これを持参しました。
 水掛け観音では、「俺の硬い頭が少し柔らかくなりますように」と頭を中心に水を掛けました。
 私は「融通の効かない」ことにかけては、人後に落ちません。
 「一言居士」は良いのですが、一度決めたことは、絶対に変えないし、他人の言葉に心を動かすこともありません。これが良い方に出れば良いのですが、残念ながら両方に出ます。
 手を合わせた時には「諸々のものをお預けします」と念じました。

 そこから高麗神社に回りました(349日目)。
 お寺や神社で、各々持分があるようで、お寺が向くこともあれば、神社の方がさっぱりすることもあります。
 秋のお祭りが近いのか、人出も沢山でした。
 猫のトラは、生憎、社務所の真下付近にいました。

 「そこじゃあ、おやつはあげられないよ」

 離れたところから、さりげなく呼びますが、参拝客が次々に頭を撫でるので、30メートルも離れた私にはなかなか気付きません。

 「ま、今日はトラはトラなりに、務めを果たそうとしているのだから、そっとしとこう」

 人を見て「これは」と思った人を、神殿下まで連れて行くのでしょう。
 かつての私と同じように。
 トラはやはり、ここで一生を終えるのだろうと思います。
 仏教徒なら、「きっと次は人間に生まれ替わることが出来るよ」と言うだろうと思います。

 これで、深夜の呻き声が収まってくれれば良いのですが。
 「あああ。ああああ」という女性の声が、昼日中でも耳に残っています。

 なんとも不思議なことに、深夜はその声で起こされるのに、目が覚めた後は、頭も体もスッキリしています。
 概ね、いつでも体が重く、足を交互に前に出すのもしんどいことが多いのですが、こういう時はさっさと歩けます。
 もちろん、走れたりはしませんが、苦痛は感じません。

 「あちこちで不浄霊を拾い集めては、お寺や神社に届けているわけだが、もしかして、これもご功徳になっているのかもしれん」
 ま、もうひとつの考え方もあります。
 「あるいは、俺がどっちかというと、生きている者の側ではなく、あっち側の者に近いから、というケースもありえるよな」

 神社を出て、家の駐車場に車を停め、外に出て歩き出したら、やっぱり体が重くなっています。
 「おいおい。俺は自他共に認める人間嫌いで、『友だちなんかいらねえ。知ったことか』を公言するような奴だ。それもそのはずで、俺の仲間はあの世に住人なのかよ」
 ま、そこまでは無いとは思いますが、しかし、体が重くなってますね。溜め息。

 こういうのは、世間でよく言われることとまったく逆の反応ですねえ。
 普通は「霊が乗って、肩が重くなった」「具合が悪くなった」と言います。
 でも、残念ながら、そういうのは多く心理的なもので、「別に平気だ」と思えば、平気なもんです。
 この世の「霊感」のほとんどは、想像や妄想、思い込みです。

 本物は、音叉の共振と同じ性質のものなので、基本は「念が声になって聞こえる」に始まり、次第にはっきりした物理的現象が起きます。
 身体的影響は、大半が心理的に作られるもので、副次的なものです。
 ま、のべつまくなしに声が聞こえ、画像に写り、姿も見えてしまうようになってからではないでしょうか。実態は分かりませんけど。