日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

『怪談』 第3話 磯女(いそめ)

『怪談』 第3話 磯女(いそめ)
 『怪談』は「夢の話」や様々な人の体験談を基に、「本当にあった、みたいな作り話」として再構成するものです。

◎『怪談』 第3話 磯女(いそめ)
 これは十年前に私自身が体験した、世にも怖ろしい出来事の話です。

 私は生まれつき、「勘」の立った性格です。
 母もそうでしたので、おそらく母親譲りなのだろうと思います。
 具体的には、いわゆる「予知夢」をよく観て、後に起きることを予め言い当てることがありました。
 また、様々な場所で、何かの気配を感じました。この場合は、もちろん、生きた人ではない気配ということです。
 山の中で人気の少ない小道に入って行くと、目張りをした車が停まっていたり、釣りに行った海辺で土左衛門を発見したことがあります。この場合 「土左衛門」とは溺死者のことです。
 そういう時には、それがある場所に引き寄せられるような心持ちがしたのですが、今思い返すと、実際に「引き寄せられていた」ような気がします。

 その日、私が玄関を出ようとすると、後ろから妻の幸恵が声を掛けて来ました。
 「あなた。細かいことは言わないけれど、あまり羽目を外さないでね」
 この日の私は、M半島まで車で行き、新鮮な魚介類を買って来るつもりでした。
 暮れが近づいていたこともあり、年越しの仕度を始める必要があったのです。
 「これまでずっと忙しかったのだから、たまに遠出するくらいはいいだろ」
 そう言うと、妻は頬に笑窪を見せて微笑みました。
 「ま、いいでしょ。でも、ちゃんと忘れずに美味しい鮪を買って来てね」
 妻は疑り深い性分で、「この夫が外で浮気をするのではないか」と細かくチェックするのですが、この日は案外あっさりと解放してくれました。

 「でも、気を付けてね。あなたも知っている通り、私のお祖母ちゃんは百歳を過ぎた今でも元気にしている。元は祈祷師で神さまに仕えていたのよ。だから長生きなの。私はその孫で霊視能力がある。だから、あなたがどこで何をしていても全部分かるんだからね」
 妻は私が誰か別の女性と一緒に出掛けるのではないかと少し疑っていたのです。
 そこで、私は妻に答えました。
 「世の奥さん方は、ダンナが浮気するんじゃないかと心配するけれど、他の女性たちから見れば、そのダンナなんてただの冴えないオヤジだ。もてるわけがないだろうに」
 そう言い残して、私は車に乗り込みました。

 しかし、私は妻に嘘を吐いていました。
 その日、M半島には別の女性と行くことになっていたのです。
 その女性は学生時代に付き合っていた「かつての彼女」、真奈美でした。
 ひと月前に恩師が亡くなり、その葬儀に出席した際に、私は真奈美と再会したのです。
 大学を卒業して環境が変わった時に真奈美とは別れたのですが、2年ほどは半ば同居していたも同然の状態でした。
 それから十六七年が経ち、今ではお互いに家庭を持っています。
職業上の地位も上がり、子どもたちにも手が掛からなくなっていました。
 「あれから」の話をするうちに、何時しか若かりし頃の気持ちを思い出していました。
 真奈美の夫は実業家で、海外にも拠点を置いていますので、留守がちです。
 私の方も会社を経営していますので、殆ど休みを取らずに仕事をしています。
 日々の務めに追われているうちに、心に隙間が出来ていたのです。
 そんなところに、かつての彼女・彼氏が現われたので、互いに惹かれ合うのは必然の成り行きでした。
 そこで、私たちはそれなりの用事を作り、二人で出掛けることにしたのです。

 M半島に向かう、行きのドライブは、まさに楽しいことばかりでした。
 二人は互いに年齢を重ねていましたが、気持ちは昔のままです。
 別れ際に酷く言い争いをしたことなどは遠くなり、楽しかった思い出ばかりが思い出されます。
 漁港に着き、早速、新鮮な魚を食べ、土産物を購入し、その地に住む知人を訪問しました。
 用事を済ませた後、私は真奈美に言いました。
 「せっかくここまで来たのだから、少し海を眺めて行こうか」
 真奈美が頷きます。真奈美の方も、かつての恋人時代を思い出していたのです。
 そこで海辺のJ公園に向かったのです。
 駐車場に車を停め、長い階段を下りて、磯に向かいました。
 ゴツゴツした岩に波が打ち寄せ、はるか先には水平線が見えます。
 「きれいだね。日頃の憂さを忘れさせる」
 知らず知らずのうちに、二人は寄り添っていました。

 ここで私は何気なく横の方に眼を向け、驚きました。
 誰一人、私たちの他に人はいないと思っていたのに、三十メートル先の堤防の上に人がいたのです。
 そこにいたのは女性で、こちらに背中を向けていたのですが、その後姿が妻にそっくりでした。髪の長さといい、肩から腰までの骨格といい、妻の幸恵のそれとまったく同じです。
 (まさか。あいつがここに来る筈が無い。)
 幸恵は嫉妬深く、私の周りにいる女性のことは、例えそれが仕事上の相手でもとことん調べます。ひと度、疑いを持ったら調べずにはおられない性質なのです。
 もし、私が別の女性と出掛けるなんてことを知ったら、タクシーを使ってでも追い掛けて来るやもしれません。
 「いくら何でも、それはないだろ」
 私は思わず、この言葉を声に出して言っていました。
 「え。何のこと?」と真奈美が訊いて来ます。
 「いや。あそこに女の人がいる。進入禁止の柵の外だから、危ないと思ってさ」
 その女性がいたのは、堤防の上ですが、その下は荒磯で二十メートルくらいの高さがありました。もし落ちたら、生命の危険さえあります。
 そんな危険なところに、その女性はじっと立っていたのです。
 「思い詰めて、あそこまで行ったなんてことはないわよね」
 もしかして、自殺志願者かも知れません。
 「声を掛けてみる方がいいんだろうか」
 「でも、ただ眺めているだけなのかも知れないし」

 それでも、目の前で海に身投げされては困りますので、さりげなく女性の方に近寄ってみることにしました。
 岩を渡るように近付くと、女性は依然として向こうを向いていましたが、やはり妻にそっくりな体型をしています。でも、奇妙なことに「ひとの気配」がしないのです。
 (まさか。あれは女房の生霊だったりしてな。)
 ひとがひとに執着心を持つと、生霊になって、その相手に纏わり着くと言います。
 私は、もしかすると「これがそうかもしれない」と思いました。
 女性まで十メートルのところまで歩み寄ったのですが、女性はそのままです。
 背中を向けていますが、私は直感で「このひとは私が近付いているのを知っている」と思いました。まあ、これが妻の生霊なら当たり前です。
 「そう言えば、祖母ちゃんが祈祷師だと言っていたよな」
 ダンナがこれから浮気しそうなのを嗅ぎ取り、生霊になって後を尾行(つけ)て来たのでしょうか。

 この時、真奈美が岩に足を取られ、少しよろけました。
 私は真奈美の体を支え、ほんのちょっとの間、足元に眼を向けたのです。
 再び顔を上げると、つい一瞬前まで目の前にいた女性の姿が消えていました。
 「あら。いないわ」
 隣で真奈美が声を上げました。
 「まさか。落ちたのか」
 私たちが近付くのを感じ、急ぎ海に身を投げたのでしょうか。
 女性がいた堤防に立ち、下を覗き込みます。
 しかし、そこには何の痕跡もありませんでした。
 「おかしいな。誰もいない。さっきまで確かに女の人がいたのに」
 不審に思いますが、しかし、目の前で身投げをされるよりは、はるかにましです。
 「海を眺めていたが、俺たちが見ていない時にこの場を離れた、ということなのだろうな」
 あるいは、やはり妻が生霊になって、私を監視しているとか。
 頭を過ぎるのは、そんな類のことです。
 それでも、その時はまだ、隣にいる真奈美のことのほうが気になっていました。
 「このまま、昔みたいに出来ちゃったりして」
 不謹慎ですが、私は若い頃の真奈美の肢体を脳裏に浮かべていました。

 それから、私と真奈美はその場を後にしました。
 再び、港の方に向かいます。
 カーナビを東京方面にセットして、帰路に着こうとしたのです。
 すると、そのカーナビが変な指示を出しました。
 「左に曲がってください」
 左は先ほど食事をした街の中に向かいます。こちらを進むと、遠回りになるはずでした。
 「これって帰り道なのか?」
 でも、ま、こちらが近道だということもあるのかもしれません。
 慣れぬ道ですので、ひとまずカーナビの指示に従うことにしました。
 すると、車はM市の中を縦横に走り始めました。
 街中の路地を曲がり、裏道に入っては、また曲がります。
 ぐるっとひと回りして、また元の道に戻り、逆方向に走り始めました。
 右に左に走っているうちに、さすがに気が付きます。
 「おかしいな。カーナビが誤作動している」
 衛星との通信状況が悪いと、現在の居場所を検知出来ないことがあります。
 しかし、その場合は、地図の表示そのものがおかしくなるため、進行方向を指示することはありません。

 結局、40、50分も街中を右往左往しました。
 そこでようやく、私は確信を持ちました。
 「間違いない。これは誰かが悪戯をして、帰路を妨げているのだ」
 実は、私は心の中で、「帰り道にどこかのホテルで休憩していこうか」などと、良からぬことを考えていたのです。
 そんな邪心を見透かして、きっと妻が邪魔をしているのだ。
 私はそう思いました。
 そこで、私は頭の中で願を掛けたのです。
 「この人と浮気をしよう、なんて下心を出した俺が悪かった。そんな考えを捨てて、真っ直ぐ家に帰るから、もう解放してくれ。俺はもうお前のものだから、これから二度とお前と離れることはない。約束する」
 すると、ほんの1、2分後に、東京に向かう幹線道路に出たのです。
 「あ。ここだ。この二十※号線を右に行けば帰れる」
 その交差点を曲がり、私たちはようやく帰路につくことが出来ました。
 当初は帰路の途中で寄り道をするはずだったのですが、もちろん、真っ直ぐに帰り、真奈美を最寄の駅の前で下ろしたのです。
 「また何か機会があればね」
 しかし、それ以降、真奈美には会っていません。

 私は自宅に戻ると、玄関先で妻に言いました。
 「いやはや、俺はよっぽどお前を愛しているらしい。行く先々でお前の姿を見た」
 今日は女性と一緒にいたなどとは、もちろん、口には出しません。
 「あるいは、お前が魂を飛ばして、俺の傍にいたのかもしれんな。何せお前は祈祷師の孫で、霊視能力があるというからな」
 すると、妻の幸恵はくすくすと笑いました。
 「あら、あなたは本気にしたの。私のお祖母ちゃんは本当に百歳だけど、今は介護施設にいます。祈祷師なんかやったことはないわ。何となく、あなたが誰か女の人と一緒なんじゃないかと思って、言ってみたのよ」
 私は思わず、妻に訊きました。
 「え。それじゃあ、お前が霊視能力があるってのは・・・」
 すると、妻が断言しました。
 「そんなの、冗談に決まってるじゃない。あなたに釘を刺すために言ってみただけよ」

 私は思わず叫びました。
 「しまった。あの女はこいつじゃなかったのか」
 そうなると、あの女は海の近くにいた別の「誰か」だということになります。
 私はその女を妻だと思い、「俺はもうお前のものだから、これから二度とお前と離れることはない。約束する」と念じていたのです。
 背筋に悪寒がチリチリと走ります。
 私は結果的に、悪霊と取引をしていたのでした。

 それに気付いた、ちょうどその直後のことです。
怖ろしいことに、私の後ろの玄関の扉が「どん」と音を立てました。
 まるで、それは誰かが「自分はここにいるよ」と教えるために叩き鳴らしたような音でした。
 はい。どんとはれ。

 設定は少し違いますが、実体験で似たようなことが幾度かあります。
 今年も三陸の海辺でカーナビに連れ回されました。有りえないくらい、右に左にと走らされます。
 その多くは「連れてってくれ」という意思によるものだろうと思います。