日刊早坂ノボル新聞

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◎『鬼灯の城』再開に向けて 「浅野庄左衛門のこと」

◎『鬼灯の城』再開に向けて 「浅野庄左衛門のこと」 
 浅野庄左衛門は、浅野長吉の家来で、盛岡藩とは縁の深い人物だ。
 しかし、藩史に断片的に記述されているだけで、どのような人物かはほとんど知られていない。
 忌み名も「忠政」の他、数通りが伝えられており、はっきりしない。ま、忌み名は普段使われないから、余程の有名人でない限り記録には残らない。

 庄左衛門は、秀吉の第一次奥州仕置の時に、鳥谷ヶ崎に「代官」(まだこの言葉はなく、正確には「目代」)として赴任して来たが、一揆が起こり、城を奪われた。その時、殺される寸前だったのを、南部信直軍によって救い出され、以後、一年くらい信直の食客待遇で、糠部にいた。
 天正十九年には、南部利直と共に京に向かい、秀吉に一揆討伐のため出陣してくれるよう要請した。
 分かっているのはここまでで、その後、庄左衛門がどうなったのかは、まるで記録が残っていない。
 九戸一揆が鎮圧された後にそのまま残り、「南部家の家臣になった」という説もあるが定かではない。
 ま、浅野家の家来のままで、南部家に派遣され、その内情を浅野本家に報せる役割だった、という線もあり得る。

 浅野長吉(後の長政)はアンテナ感覚に優れていて、周囲の気配をすぐさま察知して、政に役立てたひとだ。
 秀吉が家来を気に入ると、「羽柴」姓を与えたように、長吉も自分の家来に「浅野」姓を与えた。
 秀吉から重用されているのに、蒲生氏郷のように警戒されなかった。(ま、氏郷の場合は、正室織田信長の娘で、秀吉は「ものにしよう」と狙っていたという事情もある。)
 その辺、長吉は「気配りのひと」で、目を光らせていたから、秀吉が死ぬと徳川方に近付いた。
 そういう身の処し方の上手さも、情報収集力があってこそだ。
 
 浅野庄左衛門は、長吉によって取り立てられた者だが、会社で例えれば、中級管理職であり課長さんくらいの人になる。
 ところが、戦国末期から江戸初期の盛岡藩にとっては、重要な人物のひとりだ。
 幸か不幸か、人物像がほとんど分かっていないので、当方の物語の中では、庄左衛門に重要な役どころを与えることにした。

 釜沢淡州は戦国時代にあっては稀有の侍で、内政を重視した。他の侍が合戦に明け暮れている間も、畑を耕し、新田を開発していた。
 それが、九戸一揆が終わると、南部信直はその足で釜沢を攻め、淡州を滅ぼした。
 淡州が「参陣しなかった」という理由だが、それなら改易にすれば話が済むし、あえて攻める必要はない。
 何か別の理由があった。
 また釜沢を攻めたのは、信直の直属の家来ではなく、大光寺光親だった。
 かなり違和感がある。

 そこで、浅野庄左衛門のような、「南部家に近いが、しかし、圧力を掛けられる立場」の者が関与したと想像することにした。ま、ここは作り話。
 浅野庄左衛門クラスになると、意図的に話を作り、スポットライトを当てないと、誰も見ないし、考えない。
 人生の局面ごとに、「どう判断すべきか」を考えるためには、中級管理職の視線もまた必要だと思う。

 当方の中で「侍が動き始めた」ということは、とりもなおさず、「体調が少し良くなっている」という意味だ。
 ひと月前には考えられない事態だったが、またやり直すことが出来そう。
 ま、もはや「次の機会」は無く、「今を逃してはならない」のは重々自覚している。