◎『鬼灯の城』 リスタート
盛岡タイムス紙上で、12月5日から『鬼灯の城』の連載が再開された。
昨年の12月に体調を崩してから、ここまで戻るのにほぼ一年を要したことになる。
生き物はいざ最期を迎えようとすると、全身の穴が弛緩してダラダラと糞尿を垂れ流す。ゴキブリや鼠の死骸の周りには糞が散らばっているが、人間も同じだ。
この頃の私はもはや括約筋に力が入らなくなり、お尻をいくら洗い流しても汚れている状態だった。当然、「もはやこれまで」と覚悟する。
そこから、一歩一歩を確かめるように前進し、ようやくそれなりに動けるところまでは来た。しかしもちろん、普通の健康状態の時の二割にも及ばない。
夏場にも危機があったから、PCの前に数十分ほど座っていられるようになったのは秋口になってからのことになる。
ま、徳俵の上に足が掛かってからが、本当の勝負になる。順風の時ではなく逆風の時の戦いぶりが実力だ。己の力などは微々たるものだと承知しているが、それなりに力を尽くすべきだろうと思う。
『鬼灯の城』のコンセプトは、その花言葉の中にある。
鬼灯は、昔は「酸漿」と呼ばれていたのだが、鎮静剤や堕胎の薬として用いられていた。
このため、花言葉もマイナスイメージで、「偽り」「ごまかし」や「裏切り」といったものだ。用途が用途だけに、「不倫」を暗示しているわけだ。
要するに、この物語はひとの心の中の「偽り」「裏切り」がテーマになっている。
戦国末期の北奥史の中で、釜沢淡州・小笠原重清にまつわる記録は、ひと際異彩を放っている。
地方史の中で語られる小笠原重清の話は、いずれもわずか一行になっている。
「九戸一揆が平定された後、南部大膳(信直)は、宮野(九戸)城包囲に参陣しなかったことを咎め、釜沢を攻め、小笠原重清を滅ぼした。」
たった、この一文だけなのであるが、これはこの周辺の地誌に必ず記載されている。
宮野落城が天正十九年九月の上中旬(諸説ある)で、釜沢を攻めたのが二十日頃であるから、宮野攻めが終わったその足で釜沢に向かったことになる。
「不参」を口実に所領を没収するのは、羽柴秀吉が小田原攻めの後に用いたレトリックであり、南部大膳もそれを踏襲したのだろう。
しかし、「悪鬼」秀吉ですら、最初は「改易」を書面で通告しており、いきなり攻め寄せてはいない。戦自体は終わっているのに、手続きをはしょって大慌てで攻め殺すには、それなりの理由がある。それなら、さて、如何なる背景があったのか。
これを考えて行くのが、この物語の狙いのひとつになっている。
鬼灯は元々、堕胎の薬であるから、物語の中にも不倫や性交渉の場面がふんだんに出て来る。「己の一物を女子の中に突き入れる」のような表現は各所にあるわけだが、官能小説のつもりでは、もちろん無い。要素として必要なので入れている。
釜沢攻めの陣頭に立ったのは、鹿角侍の大光寺光親だった。
釜沢の地は、二戸宮野城の目と鼻の先にあり、糠部の地侍が容易に攻められる。
では何故、大光寺だったのか。
恐らくは、二戸三戸の地侍が信直の命令に首を縦に振らなかったのだろう。
これが、釜沢淡州にまつわる物語の「最後の裏切り」になる。
この時のやり方があまりに「あこぎ」だったためか、「釜沢を滅ぼした後、程なくして南部信直の許に小笠原重清の亡霊が現われた」という説話も残っている。しかし、これは後世の者の作文のようだ。
それだけ、釜沢攻めを理不尽に思う者が多かった、ということだ。