日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎すごく怖い

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2017/10/12 撮影

◎すごく怖い

 「あの世」系の話には、あまり恐怖心を覚えない方なのだが、たまに感じることもある。

 日頃、様々な画像を見ているので、もはや「慣れてしまった」面もあるわけだが、そこそこ理屈が分かってしまうと、恐れは次第に消えてしまう。

 ところが、たまに正体不明の怖れ(または畏れ)を感じることもある。

 たぶん、普通の人とは逆で、さしたる異変を「視覚的に捉えられない」のに、「圧力を感じる」から、それを「怖ろしい」と思うのだろう。

 

 画像は2年前に「O沼」で撮影したものだ。

 一般の人には何ら影響の無い場所だが、「変わり者」には別の意味がある。

 この日はたまたま近くを通り掛かり、記念写真的な意味で撮影した。

 最初は上の方に女性の顔がわずかに覗いていた。そのせいで目を止めたのだが、これを眺める度にざわざわした感覚を覚える。

 その理由は何故かと考え、幾度か足を運んでみた。

 ここは農業用水用の人造沼で、元は、たぶん、今よりかなり小さかったのだろうと思う。

 沼の中に小島があるが、ここに鎮守様が祀られている。道路から鳥居が見えるが、岸から橋が架けられており、渡れるようになっている。

 ざわざわ感を覚えるのは、その鎮守様の小島の十メートルほど沖だ。

 どうやら、ここに「窓」、すなわち「あの世」との接点がある。

 ここでは幽界の住人が出入りしているようだから、もはや「窓」ではなく「扉」と呼んでもよい。

 時々、その「扉」が開くようで、最初の日は、たまたまそれが開いていたらしい。

 (幾度も訪れたが、「扉」が閉まっていて、何も異常がない・感じないことの方が多いようだ。)

 その戸口から沢山の視線がこっちを見ている。

 それが「何となく怖ろしい」と感じる理由だ。

 

 こういう視線は、多く具体的な「眼」として現われることが多いのだが、ここにはそういう「しるし」がまったく無い。

 その「何もない」のに「気配だけある」ということが、何とも言えず怖ろしい。

 悪縁(悪霊)は、陰に隠れ、表に出て来ないほうが厄介だ。おどろおどろしい表情で画像に残る類の者は、自身の感情に囚われてそうなっているので、さほどの悪影響は無い。

 しかし、何も「しるし」を示さない者は、その者自身ではなく、こっちを見ている。

 ものを考えて見ているわけだ。

 本来は、死ぬと思考能力が失われるから、感情だけの存在になる。

 ところが、同化と合体を繰り返すうちに、次第にものを考えることも出来るようになるようだ。

 そういう視線がこっちを見ている。

 こちらに関わろうという意思があるわけだ。

 

 そのせいだろうが、鎮守様にお参りしようかと、橋の前まで行ったが、そこを渡ることが出来なかった。

 心の中で「やめとけ。戻って来られなくなるぞ」という声が聞こえたからだ。

 こういうのは、たまにある。

 人が「触ってはならない」場所は確実に存在しているから、こういうケースには好奇心など持たず、黙って離れることが一番だ。

 

 二年前の私と今の私はまるで別人なのだが、今ではこの沼の中に「女児が立っている」と思う。女児は着物を着ているのだが、両手を合わせ、私を見ている。

 女児が「こっちに来ては駄目だよ」と言う、その声まで聞こえる。

 女児は沢山の悪縁に掴まっているのだが、自分と同じにならないように警告してくれているのだろう。

 もちろん、制止されずとも、私が傍に寄ることはない。

 その女児の周囲には、数え切れないくらいの視線があるからだ。

 

 こういう場合、異状を感じ取れぬ者には何も起きない。何も感じないし、何も起きないのだから、対処の仕方を考える必要もない。

 しかし、感じる者には相応の見返りがある。リスクを避け、注意深く迂回する必要があるのだ。

 いつも「何も見えず、聞こえぬ方が幸せに暮せる」と言うのは、そういう意味になる。

 昔の人が「凄い」と思うのは、目に見えぬ「窓」や「扉」を感じ取り、悪縁を呼び込まぬようにするため、きちんと鎮守様を建てるところだ。

 こういうのには説明は要らず、ただ敬意を払い、避けていればそれでよい。

 現代人が明らかに劣るところは、自身が知らないだけのことを「ない」と決め付け、軽視するところだろう。

 

 もちろん、いつも書く通り、こういうのは専ら「気のせい」であり、「想像や妄想」に過ぎない。他者と共有することが出来ないものは、常にそういう位置づけになる。