日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎悪縁に寄り付かれた時に起きること

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悪縁断ちの考え方

◎悪縁に寄り付かれた時に起きること

 参考になるかどうか分からないが、「悪縁」が寄り付いて来る典型的な兆候や症状について記す。「悪縁」は一般的な言い方なら、「悪霊」だが、生きている者の恨みの「念」も含むのでこう呼ぶ。

 

 最初の兆候は、本人にとって悪いことではない。

 幸運が次々に舞い込んで来る。仕事は順調だし、他人からの評価も貰える。

 馬券を買えば万馬券が当たるし、宝くじもソコソコの高額配当を連続して手に出来る。

 すると、その人の心に起きるのは「慢心」だ。

 「自分は他の者より優れている」「特別な才能がある」

 そういう考え方をするようになる。

 

 こういう期間は割と長く続く。半年から数年と人により違いがあるが、良いことばかり起きる。

 だが、少しずつ異変が始まる。

 まず「声」だ。周囲に誰もいない時に、「ぶつぶつ」と呟くような声が聞こえる。

 周りを見回しても誰もいないので、ひとまず「気のせい」だと思い込む。

 春先には猫が発情し、「ぎゃあぎゃあ」と泣き叫ぶが、その声に混じり、人の声のような音が混じる。それは絶対に猫が出さない声、すなわち言葉になっている。

 

 物理的な異変も起きる。そういう異変は「滅多に起きない」と書いているが、例外もある。

 テーブルや食器棚のお皿が落ちて割れる。これは偶然には落ちない位置に置かれたものが落ちる、という意味だ。

 一度実際に目にしたことがあるが、食卓の上のお皿が横にスーッと滑り、端から落ちた。

 「これはおかしい」と思うが、しかし、「たまたま暖かい空気に乗っただけだ」などの理由をつける。要するに「信じたくない」から現実を受け止められない。

 また、仕事などの調子が良いから、そちらに気を取られている。

 

 次はごく間近にひとの気配がするようになる。

 誰もいない部屋で足音が響いたり、鮮明な声が聞こえたりする。

 窓の外で誰かが立っている気配がある。

 鍵の掛かっていない扉が開かなくなる。

 カーナビが誤作動する。これは迂回路を選ぶという程度のことではなく目的地とはまったく別の場所に導かれるということだ。実体験では、東京に向かうのに名古屋方面を目指したり、同じ街の中を延々とぐるぐる回らされた。

 電気製品が誤作動するようになる。テレビやエアコンが勝手に点いたり消えたりする。

 バタバタと煩いので、一度、「煩い。お前が幽霊なら返事をしてみろ」と怒鳴ったことがあるが、すかさずテレビの電源が三度点滅した。

 作り話のようだが、総て実際に起きたことだ。

 

 この辺から、徐々に状況が悪くなる。

 まず人間トラブルが頻発するようになる。ささいな言動を相手が悪く取り、騒動に発展する。家族を含め、一挙手一投足を悪意で受け止められるようになる。

 頻繁に泥棒に狙われたり、次々に交通事故に遭ったりする。いずれも本人には何ら落ち度が無い。

 私はひと月に二度、追突されたことがあるが、後ろから来る車が「まるで前に私の車が存在しないかのように」、ブレーキをかけることなくそのままぶつかって来た。居眠りや酒気帯び運転ではなく、「前の車が見えなかった」らしい。

 さすがにこの時には、神社でお祓いをして貰った。

 

 車上狙いや、事務所荒らしの被害に遭う。

 こうして、日常的に心の中に「怒り」を覚えるようになる。

 

 逆境の時には家族に味方になって欲しいわけだが、逆に、その家族に責め立てられる。

 いくら説明しても分かっては貰えない。

 徐々に仕事が上手く行かなくなる。

 どんどんお金が流失する。

 あれほど当たっていたギャンブルもまったく当たらなくなる。

 

 この辺で「これはおかしい」と気づけば、まだやり直しができる。

 「誰か」が手を加えて、総てが操作されていると気付けば、考え方や行いを改めることで、徐々に好転する。慢心を捨て、謙虚に自分に向き合い他人とも接するようにすると、少しずつだが悪縁は去って行く。

 こういう時にはすぐに「誰か」を頼ってはならない。祈祷やお祓いで一時的に遠ざけられても、その人本人が悪縁を呼ぶ限り、いずれまた再び寄って来る。

 まずは自身の手と心で問題解決を心掛けることが肝要だ。

 学業や仕事の成就、お金などの成果を神仏に求め、頼ってはならない。

 「※※大学に合格できますように」ではなく、「合格できるくらい強い心を持つ私でいられますように」と願うこと。

 こういうのを手助けしてくれるのは、神や仏ではない。

 自身の家族や友人・知人、あまり好きではない人に至るまで、「皆が安らかに暮らせる」ことを願うようにする。これは形式的に神社やお寺に行くことではなく、心底より願うということだ。

 悪縁に対しても、「自分は仲間になれないこと」、「助けられないこと」、その代わり「きちんと敬い、供養を心掛けること」を告げ、「手助けは要らない」と断言する。

 悪縁の目的は、その相手を破滅させることではない。その相手と同化し、一体化することだ。

 このため、当人が苦境に耐え切れず、他人や自分自身を傷つけ、死に至らしめる事態になっても、そこで話が終わりではない。

 本番はむしろ死後に始まる。

 ひとが死ぬと、肉体と知能を失う。心しか持たないので、理屈でものを考えることが出来ない。このため、生前の慣習やより強く記憶に残っている感情のまま、死後も同じことを繰り返す。

 自身を失うのは怖いから、「似た者」同士が寄り集まり、自我と感情を強化する。

 そういう同化と合体を繰り返し、妄執に囚われたまま、長い時を過ごす。

 生きていた頃の何倍にも及ぶ期間をそういう状態で過ごすことになる。

 

 こういうことを回避するためには、日頃より、自身が自分本来の考えで思考しているかどうか、自身の心に従って振る舞っているかどうか、を問う姿勢が大切だ。

 本来の自分の考えや感情と、別の誰かのそれとを区別するだけで、同化されたり支配されたりすることを避けられる。

 悪縁は最初にかなりの「撒き餌」を施すので、十分に注意する必要がある。

 良いことばかり起きると、人は必ず自身の幸運を信じるからだ。

 このため、まずは「疑うこと」が第一歩となる。

 あとは、心を鎮め、ゆっくりと自身を振り返ることの出来る「自分なりの環境」を見付けることだ。

 私の場合はそれが神社猫のトラで、猫と語ることで、心が鎮まった。

 というより、猫の方が先に私を見付け、近づいて来てくれた。

 自然に親しむのもよし、音楽を聴くのもよし。穏やかな心で、自分自身を見つめ直すと、状況は必ず好転する。

 

 さて時々、生前に幼女を殺していた男の姿が画像に写るのだが、死後も女児を抱えたままだ。

 女児の方は、殺された当人の幽霊ではなく、男が自ら創り出した像になっている。

 死後の世界(幽界)では、自身がイメージした通りのかたちが現れるから、幼女に対する執着心を捨てられずにいるということだ。

 これがもし同じような性癖を持つ人物(生きた人)を見付けると、その人の欲望をさらに掻き立て、それに寄り添うことで快楽を得ようとする。相手の方が同調し、心を許し同化するようになると、今度は悪縁の意のままに操られるようになる。