日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎亡くなっていた

◎亡くなっていた

 拙作『鬼灯の城』が終盤に入り、釜沢重清の亡妻である雪路の怨霊が城の中を跋扈するようになった。

 「雪路」という名は、かの朝岡雪路さんのルックスを念頭に置いて付けた作中名だ。

 おそらく着物姿が似合うから、立ち姿が引き立つと思ったのだ(あくまで怨霊として、だが)。

 夜中に、暗がりの中に雪路さんの幽霊が立っていたら、さぞ怖かろう。そう考えたのだ。

 もちろん、この場合は「演技者として」という意味になる。

 

 ところで、本物の雪路さんはどうしているのだろう。

 先ほど、そのことに気付き、検索してみると、雪路さんは一昨年、八十二歳で亡くなっていた。

 生まれたのが昭和十年の七月で、亡くなったのが平成三十年の四月だから、母と同じ齢だ。

 全然知らなかった。

 ちょうど私の母が亡くなる頃で、私が世間で起きていることに気を払っていなかったからだろう。

 

 そう言えば、11PMの朝岡さんを画面で見ていたのは、もはや四十年は前になってしまう。

 『夜のヒットスタジオ』など、やはり暗くなってからの番組が多かったようだ。

 

 朝岡さんのヒット曲は、ご存じ『雨が止んだら』だ。

 私は料理をする時などに、鼻歌でこれを歌う。

 他にあまりヒットした曲はないのだが、昭和35年の紅白に『ドンパン節』で出ている。

 『ドンパン節』ってか。サイコーだ。

 子どもの頃、田舎で「やたら長い宴会」があると、酔っ払ったハゲオヤジが必ずこれを歌っていた。

 冠婚葬祭のいずれでも、田舎はとにかく宴会が長くて、12時過ぎてもまだ居座っている酔っぱらいがいた。

 

 紅白は昭和四十年代には、国民の誰もが観る番組だった。

 当家では大晦日の深夜まで営業していたから、子どもの私でも、手伝いが終わるのは十時十一時。炬燵に入ると、すぐに寝込んだから、ほとんど観た記憶がない。

 父母も同様だったことだろう。

 つくづく、「昭和は最高だった」と思う。あの活気はその後と全然違う。

 バブルの時などは、昭和の景気とは質そのものが違う。

 

 バラエティでしか観たことが無い人が多いと思うが、朝岡さんは演技が上手い方だった。芝居が出来、機転も利く。話も上手かったから、息の長いタレントになった。

 繰り返し思い出すことが一番のご供養になる。

 母の生涯と重なるとは思わなかったが、この後も「雪路」にはおどろおどろしい怨霊として暗躍して貰おうと思う。繰り返すが、もちろん「演技者として」という意味だ。

 合掌。