日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

豊臣秀吉の双眸

豊臣秀吉は、日本人の誰一人として知らぬ者のない存在です。
→元々は農民だった。ちなみにこの頃は「百姓」という言葉は一般的ではありません。
織田信長に取り立てられ、見る見るうちに出世した、等々。

明治以降、とりわけ戦後の小説のおかげで「人が良くて働き者」のイメージが広まっていたりしますが、実態はかなり違っていたようです。
信長の草履を肌で温めたから取り立てられたってのはウソですよ。それどころか、一族のためなら自分の命をその場で捨ててでも、という臣下はゴロゴロいたはずですので。

昔を知る東北人にとっては、秀吉は恨み骨髄の相手です。
小田原の北条氏を攻めた後、その勢いのまま、豊臣軍は東北地方に侵攻します。
この時の基本方針は「なで切り」、すなわち皆殺しで、何かしら理由をつけては領地を取り上げ、反抗すれば皆殺しにしました。
ま、論功行賞で、古くからの家臣あるいは新規召抱えの者に新しい領地を与える必要があったわけですね。
家臣も自分の取り分が欲しいものだから、遠慮せず東北各地で殺戮を展開しました。
「死人に口なし」で、この時の記録は多くはないわけですが(ぜんぶ殺されたので)、丹念に調べてみると、古文書に色んなことが書き残されているようです。その多くは口承(民間伝承)を書き写したものです。

昭和40年代初めは、私はまだ小学校の低学年でしたが、岩手県央の姫神山の麓に住む老婆の家を、時々訪れていました。この老婆が、当地の昔話を様々語ってくれたからで、子どもにとっては想像力を掻きたてられる話ばかりでした。
でも、最初にその老婆と仲良くなるまでは、かなりの時間を要しました。
その老婆の瞳がそれぞれ2つあったからで、その外見が子どもにとって怖ろしく見えたからです。
この場合、瞳が2つあると言っても、あくまで「重なって2つずつ」ということです(念のため)。
ここの家人は、老婆の眼のことを語るのに、「豊臣秀吉だって、黒眼は2つずつあった」と言っていたことをよく憶えていますが、昔はこういう人は結構いたようです。
しかし、東北では秀吉は極悪人の代表のような存在なので、殺戮者のイメージがそんな異形の口承として残ったのではないかと考えていました。

しかしその後、何十年か経った後、岩手日報社が発行した「いわて怪談・奇談・珍談」という本を開く機会がありましたが、この中にも「秀吉の黒眼は2つずつあった」という話が収録されていました。
もしかして、ただの根も葉もない口承だけではないのでは・・・。
長い間、このことが気になって気になって。

昨年、ある東北の家の古文書を一括で入手したのですが、この中に「陸奥仙台白石物語」と共に文久年間の当主の見聞録が混じっていました。ちなみに白石物語は鬼の伝説を記したものです。
見聞録の方には、「実は秀吉の黒目は2つずつあったということで・・・」とはっきり書かれていました。
3度出てくるのであれば、この話を何かに使えそう。
小説にするか、さらに調べ学術論文にするか考慮中です。小説の方は既に骨組みを書いてありますので、今年出す予定の本に収録しようと考えています。

なぜ信長が、秀吉に惹きつけられずにいられなかったか。
なぜ武者たちの中にあって農民出の秀吉が甘く見られなかったか。
「異形の者であった」という答えは、一発で説明できる事柄ですね。

一度権力を握ると、特に指示せずとも、権力者に都合の良いように歴史が書き換えられます。
秀吉の命による殺戮の数々は、これまであまり語られたことが無いように感じます。
秀吉好きの人たちには申し訳ありませんが、16世紀末に秀吉に最後まで反抗した九戸政美の一派・「九戸党」の名を借り、今後は「秀吉潰し」をゲリラ的に展開するつもりです。