◎後になり気付いたこと
まずは先週の経緯から。
某日帰り温泉(兼産直)の前で、写真を「撮影環境の条件がピッタリ合致する」と思いつつ撮影すると、まずは高齢男性の顔が写った。
現場で検証したが、5メートル以上後ろにいるのに、顔の大きさが縮んでいない。
身を屈めて靴を履く場所ではないし、そもそも湯着が今のものではない。
位置関係が合わないので、扉の内側にいた人がたまたま写り込んだものではない。
二重扉の内扉のガラス面に顔を寄せて、中腰でかがむ人はいない。「人はいなかった」と見なす方が合理的だ。
この高齢男性が誰かということついては、何となく見当がつく。
そこで、数日後に、ご供養と、導きのために、再度、施設の前に立つと、今度は私の背後に白い着物を着た女性が写った。
女性は右手を伸ばしているが、指の先が5本見えるので、眼の錯覚でないことは確かだ。
かつ、これまでも、恐らく同じ女性と思しき人影は、幾度も私の前に現われており、画像にも残っている。
ここまでは、その時点での現在進行的観測だ。双方とも、何故現われたのか等の状況はまるで分からない。
それから幾日か経ち、驚きが静まると、冷静に考えられるようになって来た。
まずは、あの女性(たぶん、巫女姿)が「何のために現われたか」ということだ。
女性は右手を伸ばしているが、これで意思が推測出来る。
右手の先に何かがあるわけだ。そうなると、答は簡単だった。
巫女姿の女性は、最初の高齢男性に向け、手を差し出していたのだ。
(以下、「巫女」に省略。)
その後、数度、同じ場所、同じ位置で撮影したが、まったく異変が起きない。
曇りのないきれいな画像になっている。
そうなると、最も分かりやすい解釈は、「巫女がそこにいた高齢男性を導いた」ということだ。不慮の事故(自死を含む)で亡くなった場合、自身が作り出した闇の中に座ったままでいることがあるが、高齢男性もそういう状況だったのではないか。
最近では某滝や某湖、某ダムで唐突に幽霊が画像に写ったが、数度ご供養をすると、その後はきれいになっている。
ひとは傲慢な生き物で、自分中心に考えるから、私は自分自身が「ご供養で幽霊たちを導いた」と見なしていたが、どうやら事実は、私の背後にいる巫女が関わっていたようだ。。
この女性も霊だから、己の意思で好きなところに行くことが出来ない。それで、私を利用して移動しているということではないか。
時々、夢に現われる宗教指導者と、この巫女が一致するなら、生前に数多の信徒を導いていたし、死後もそれを続けているということになる。
あの世には、人格神も善霊もいないから、これも執着心の変化したものではないかと考えられるが、生者、死者に悪影響を与える者でもないのは確かだ。
行く先々で、必ず「この世ならぬ者」の視線を感じると共に、それが画像にも残って来たが、私を見ているのではなく、背後の巫女を見ていたのだ。
自分が主役だと思っていたのに、実は「手代」もしくは「番頭」だったのは、少し物足りないが、しかし、この巫女と猫のトラが傍にいるのは心強い。
この後は三人(者)タッグで行こうと思う。
あの世の者は原則として、生者の現世利益には関わらないから、そういう意味での得はまったく無いが、心の平安は充分にもたらされる。
これで、何百回と「亡者の群れに追い駆けられる」夢を観て来たが、いつも遠ざかろうと必死で逃げていた。
外見が恐ろしいから当たり前なのだが、考えることが逆さまで、亡者の方に近付き、引き上げてやるべきだった。
一人では無理だし勘弁して欲しいが、今は仲間がいるから向き合える。
なあんだ。私はまた、世間的な意味で「日本屈指の霊能者」になるだろうと思ったりもしていたが、私ではなくこの巫女がやっていることだ(大笑)。
ちなみに、そもそも私は「霊能力」を否定しているので、念のため。この部分はあくまで冗談だ。
ま、徐々に「自由に幽霊を出して見せられる」状況には近付いて来た。
もはや「あの世」に対する恐怖心が消えつつあるが、幽霊の対処法で最も重要なのは「恐れないこと」と「敬意を示すこと」の二つだ。もちろん、幽霊は恐くなくなっても、自分が「死ぬこと」はやはり怖い。
追記)画像を追加した。昨年の某温泉旅館で撮影したものだが、窓ガラスにうっすらと顔(たぶん「古い集合霊」)が写っている。表情に警戒心が出ており、不思議に思っていたが、要するに私の後ろの「巫女」を見ていたということだ。