◎残存自我
これは今年の1月に撮影した画像だ。
周囲に人がいない時に神殿前で自分を撮影したつもりだが、自分は写ってはおらず、他の者が写った。
ごく自然に写っているので、当初は「そこに人がいたのではないか」とも考えたのだが、私の前に人はいない。
私の後ろであれば、私同様、ガラスには写らないから、記憶どおりに「人はいなかった」ということだ。
ある意味、これは衝撃的な画像だった。
画像の右側に二人組が立っているのだが、どう見ても「ごく普通」の佇まいだ。
手前のひとりは女性(もしくは子ども)で、後ろはそれより少し大きいから、ガラスの継ぎ目左右で二重写りしたわけではない。
後ろの人物は、首元までは見えているが、頭が消失している。手前の女性と撮影条件は同じなので、同じくらいには見えていなくてはならないが、写ってはいない。
その後、ずっと神殿前で撮影したものを見比べて来たが、やはり「この世の者ではない」と思う。
では、そのどこが衝撃的か。
この二人組に驚かされたのは、「普通の佇まいだった」ということだ。
特に苦しそうでもなく、怨念に溢れているわけでもない。そこにいた人が「たまたま写った」ように見える。
よく考えると、これは「ごく普通の人でも幽霊になる」ことを示しているのではないか。
それが衝撃的だったのだ。
古い説話や伝承から、今に至るまで、幽霊は常に「怖ろしいもの」として捉えられることが多い。人の前に現れる時には、恨みを晴らし怒りを抱えている。
そんな姿がイメージとしてある。
しかし、ごく普通の人でも、「死ねば必ず幽霊になる」としたらどうなるか。
そうすると、死生観を大幅に変える必要が生じることになる。
この場合、宗教が語る「死後の世界」観は、ほとんど意味が無い。存在を証明出来てこそ、初めて万民が共有出来る知見になるからだ。「信じる」か「信じない」かという次元ではなく、客観的に認識できるかどうかということが重要だ。
そうなると、とどのつまり、幽霊は「残存自我」ではないかと思う。
肉体(ハード)が滅んでも、自意識(ソフト)が、ある程度の期間、残っている。
こう考えると、分かりやすい。
これには記憶媒体みたいな物質(または物質の状態)が介在しており、記憶がプリントされているのではないか。
例えば、「お祓い」で最も効力のある方法は、刃物を使うやり方だ。刃物に念を込め、これで悪縁を切る。金属で「切れる」というのは、すなわち物質だということだ。
粒子なのか波なのかは分からないが、物的な基盤が存在する。
幽霊が常に「朧(おぼろ)げ」なのは、人間の可視域、可聴域の現界に近いところにいるからだ。カメラは人間の可視域より広く対象を捉えるから、「目には見えないがカメラには写る」ということが起きる。
もちろん、鮮明には写らないことが多いのだが、ひとの目ではっきりと分かるかどうかはあまり関係ない。体感的に検知できるかどうかではなく、「現に(物理的に)存在している」かどうかということである。
かたや因果や怨念による説明は、まったく必要でないばかりか、理解を妨げる要因になる。
ある程度、「焚書坑儒」が必要だと思う。
追記)私自身の姿が見えないので、痕跡を探してみたら、どうやら中央にいた模様。
あまり鮮明ではないが、大きな右手に掴まれていたようなので、これに姿を消されたのではないか。
これもよくある。
掴んでいる方も不鮮明だが、女の右眼だけは割とはっきり見えている。
しかし、ま、この程度の鮮明さでは、なんとも言えない。
いずれにせよ、神殿前には現実世界の「人はいなかった」ことが確定した。