日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎病院の帰りに(445)

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445日目

◎病院の帰りに(445)

 土曜は通院日。病棟に行くと、看護師の病棟チーフ(50台男性)がいたので、少し話をした。

 用件は「この病院に外科の手術を任せても良いのか」ということだ。

 大腸癌なら、今はお腹に穴を開け内視鏡で除去するのだろうけれど、やはり経験と技術がいる。

 「大丈夫ですよ。外科のK先生は丁寧ですし」

 「診断は二箇所でして貰うが、たぶん手術が必要になる。その時に、目の前の患部だけを見られると、よくない結果になることがある。ガンは取ったけど命が縮まった、みたいなケースだ」

 私は腎臓についてはこの病院だが、心臓は別の病院に主治医がいる。

 大腸の手術をする時に、心臓などへの配慮がないと、大腸以外の患部にダメージを与えかねない。

 専門職が陥りがちなのは、専門外の部分を見逃してしまうケースだ。

 「一応、心臓の先生に相談してから、治療の方針を決めようと思う」

 「そうですね。それがいいかもしれません。でも、随分冷静ですね」

 看護師は、もちろん、私のデータを知っていた。

 「俺は母親の経過を間近で見ているからね。病状を聞いて、あれこれ悩んでも仕方が無い。粛々と前に進むだけだよ」

 「私は両親を二人とも大腸癌で亡くしています。やはり下血で気が付いたのですが」

 と、看護師はこの病気の進み方について、肉親の例を詳述した。

 看護師は「生き死に」を見慣れているから、ここは淡々とした対応でよい。

 一般人だと、さも大ごとそうに驚いて見せたりするのがウザい。

ベテラン患者になると、愚痴はこぼすが、喜怒哀楽の振幅自体はかなり小さくなっている。

 

 「今はウォシュレットがあるから清潔で良いけれど、便利になったおかげで、出血しているのが分かり難くなっているという側面もある。昔は便を見れば出血が分かったが、今は水の中だし、すぐに洗われてしまうから、ペーパーにも血が付かない。結果的に発見が遅れてしまう」

 ま、出血した時点で、それが癌によるものなら、もはやかなり先に進んでいるわけだが。

 「そうですね。両親もトイレで血が出ていることを発見したのですが、もう三十年も前の話なので、家のトイレは昔式で下まで良く見えました」

 ひとまず、これで相談は終了

 「ま、自分自身を見詰め直す機会にはなる。反省はしないけどね」

 反省は若者には必要だが、中高年が反省しても、人生や生活を改善出来るわけでもないし、明るい未来が生まれるわけでもない。ただ、気が滅入るだけ。

 オヤジジイには反省など害だけしかない。「以後、気をつけよう」程度で可。

 

 ここでいつも通り、脱線開始。キーワードは、その「自分を振り返る」だ。

 看護師は、昨夜、夢を観て「泣いた」という。

 「私は最近、若い頃のこと、とりわけ昔の彼女のことを思い出します。そういうことってありますか」

 「そりゃあるさ。時々、夢に観るもの。二十台の頃に付き合っていた彼女が昔の姿で現れる」

 どうして上手く行かなかったのだろう、という思いが残っているからだな。

 「昨日なんか、夢を観て泣いていましたよ」

 オヤジがこうだとは、さすがに家族には言えまいな。

 「夢の良いところは、何もかも昔のままだってことだ。記憶を組み替えているわけだから当たり前だ。その時の彼女も今はバーサンだろうから、その方が助かる。もちろん、良いことばかりじゃないけどね」

 せっかくの「かつての彼女」の夢なのに、夢の最後はいつも「お別れしましょう」と告げられて目が覚めることだ(大笑)。もてない男はそんなもん。

 

 病院の帰りに、昨日と同じ神社に行った。

 この日は曇りで、昨日の大雨よりはましなのだが、やはり日光の量が足りず、ガラス映像が鮮明ではない。

 それでも、既に何百回と同じ風景を見ているから、ほんの少し異変があればそれと分かる。もちろん、今日の程度の写りでは、判別出来るのは私と少数に限られる。

 またもや「気のせい」「想像や妄想」の領域だ。

 とりわけ、ここで最も見たいのが「私自身」なのに、撮影する度に何故かフラッシュが発光して写らなくなってしまう。オートなのだが、フラッシュの後ろに居る者はガラスには映らなくなる。

 「オメーら。もしや俺に見せまいとしてるんじゃないだろうな」

 苦笑しながら帰宅した。

 

 画像での実証方法(のひとつ)が、ようやく見えて来たのだが、こういう構図の場合は、少し後ろから、周囲の状況が分かるように撮ればよいらしい。

 私の背後は階段だから後ろに人が居らず、かつ神殿の前に立つ人が数えられるので、誰にでも、「そこに居た人」か「居ない筈の人」なのかが分かる。

 あとは鮮明さが問題で、カメラの性能を上げれば良いだけだ。

 

 ところで、「人工肛門になったら嫌だな」とこぼすと、看護師は「両親は両方ともそうでした」と言っていたから、割とよくあることらしい。

 そこまで想定しなくてはならないのか。

 死んでも「終わり」ではないから、子どもの頃に感じた「死の恐怖」は無いわけだが、「人生の総ての記憶を正確に抱え」、「感情(の断片)だけで存在する」ようになることには、やはり怖れがある。

 これまで観察してきた通り、ほぼ総ての人間は、死ぬと幽霊になる。どれくらいの期間なのかは分からないが、生前の身近なところに留まっている。

 そのまま、果てしなく長い間、悲しみや憎しみに囚われたままでいるようになるかも知れん。

 「忘れられる」、あるいは「思い出さずにいられる」のは、生きている間だけだ。

 幽霊のまま、かつての自身の所業を思い出し、苦しみ続ける。