日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎シフトを上げる(447日目)

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447日目

◎シフトを上げる(447日目)

 「あの世」系の考究は、ブログに「三途の川便り」として掲載しているが、そろそろシフトを一段上げることにさせてもらうことにした。

 こうやっていつまでも書いていられるわけではなく、それほど遠くない将来に、私自身が「あの世」に渡る可能性がある。

  これまでは「これを見た人が恐怖心を覚えると、先に進めないだろう」という配慮から、掲載を留保するものが多数あった。この後は、幾らか先に進んだものを公開することにした。よって、最初のステップを経ずにこの段階から見ると、少し怖さを覚えるかもしれない。

 

 この日は、最近の気になるポイントをフルコースで回るつもりだった。

 とりわけ、N湖はどうなっているのか。

 あそこの湖岸には、行き場のない死者がたくさん集まっていた時期があるが、重ねてのご供養によって今はかなり数が減った。ところが、一度集まると、一旦きれいになってもまた集まるから、いずれ再び浄化が必要になる。

 そこで、お焼香道具を持参し、もしその場に居る者があれば、連れ出そうと思ったのだ。

 

 ところが、道があまりにも渋滞しており先に進めない。

 長い車列を見ているうちに、さすがにこの日は諦め、いつもの神社に参拝することにした。この日は晴れているし、おそらく自身の状態を観察できる。

 

 神社に着くと、平日だが沢山の参拝客が来ていた。

 さすがここは優秀な神社だ。「この世」の者も「あの世」の者も沢山集まる。

 神殿で数枚撮影したが、遠目の段階から既に気配があった。

 その場では見えないが、駐車場で開いてみると、やはり幾つか出ている。

 分りやすいのは、やはり私の姿だ。

 晴れているから、私自身がガラスに映る筈だが、最近そうだったように、この日も私の姿は映らない。周囲に幽霊が集まっているからだろう。

 私は同期しやすいから、向こう側からも見られる。

 とりわけ、最初の画像では、私の直前に「顔」が映っている。

 これは一人ではなく複数が同化合体したものだが、私が来たのをいち早く察知して、私のことをじっと見ている。手を合わせているのか、あるいは絵札のようなものを出し、私に見せている。

 おそらく、他のケースと同様に「助けて」と言っていると思う。

 拡大すると、私の前には、両手を合わせるか、あるいは女性の姿を描いた四角い札のいずれかが見えるが、ここは遠景からの撮影なので拡大してもはっきりしない。

 他はいわゆる「通行人」で、私とは関わりのない者たちだし、ほとんど意思が見えないから、互いに影響は無い。

 

 最後の画像は「他の人には見せにくい」性質の画像だ。

 七五三のお参りに来た父子が映っているが、これは実在の人たちだ。

父親は娘を抱いているが、父親と娘の間に、男の顔が見えている。

 N湖のレストハウスで多数写った死者たちの顔と表情が似ている。

しかし、これは死者ではないと思う。おそらく、この父親は誰かに恨まれており、その念がここに出ている。

 この人は、充分に自分のこれまでの振る舞いを反省し、心身を清める必要がある。

 自身の信仰する神や仏にお礼を言い、先祖を供養すると良い。

 こういうのは他力のお祓いでは落ちないが、心を改めれば、酷いことが起きたりしない。

 その辺はホラー映画や小説とは違う。

 あの世の者がこの世の者に与える影響は、主に「心」を対象とするもので、気持ちを暗くし、恨み辛みを増幅する。

目に見える「祟り」が起きることは滅多に無い。

 まずは「自身の振る舞いを省みる」ことが肝要だ。

 

 この日のが分りやすいが、最初に神殿に上がると、周囲の者がわっと私を見る。

 拝礼の際に、死者たちが「安らかに眠れる」ように祈願すると、私への視線がさあっと消える。話が通じるということだ。

 「どのように対峙すべきか」という切り口のひとつがここにある。

 

 なお、今後はこれまで不掲載とした画像の幾つかも掲載していくが、いつも書くとおり、拡散やツイートは避けたほうがよいと思う。「死者に敬意を払う」という原則に抵触する可能性があるわけだが、その場合、何が起きるかは予測できない。

 死者に不敬を働く人を助けたりはしないので、念のため。

 私自身は毎日、朝晩ご供養を重ねている。