日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎女性は子どもを背負っている

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令和四年二月二十八日撮影

◎女性は子どもを背負っている

 先月ニ十八日撮影の「穴(または渦)」の画像には、この手の画像としては割合鮮明に、女性の後ろ姿が残っていた。

 この女性はジャケットを着ているが、背中に何か模様が見え、当初はスタジアムジャンパーの背文字かと見ていたのだが、たまたま目を離して眺めると、子ども(男児)だった。

 この女性は右手で男児を背負っていたのだ。

 左の手は、当初は顔に見えたのだが、布袋のようなものを下げているようだ。

 恐らく、子どものための細々とした道具(哺乳瓶など)が入っているのだろう。

 拡大してみると、子どもが自身の口元に左手を当てているところまで見える。

 飴かおしゃぶりを持っているか、指自体を舐めている。

 死んだ後も母子の心情が変わらぬところが哀れだ。

 

 こういう画像は「目を離して眺める」と実態に近くなる。

 あの世は「空気と光」の中にあり、目視では煙状だ。その煙が凝縮して実体化するので、よく見ようと目を凝らすと、背後の景色の方が目に入ってしまう。

 あえて視線を遠ざけると、手前の「空気と光の中」が見えるようになる。

 こういうのは霊感とか能力の問題ではなく、単に物理的、あるいは光学的な問題になる。

 

 常々、この湖のある地点に立つと「対岸の方から声が聞こえる」と書いて来たわけだが、その場所の真下に目視可能が「穴」があったので、そっちに気を取られていた。

 こちら側の「穴」は専ら自死者の集まる「穴」で、際だって不快感を与える代物だった。

 中核は橋から身を投げた自死者たちで、この者たちの念が強いので、周囲の地域から同様の者が集まっている。そう思っていた。

 警察の舟艇が仏を岸に着け、車まで運ぶ地点がその位置だ。

 この地は、二年に渡りご供養を続け、その間に護岸工事などが行われ、環境が著しく替わった。かつての禍々しさが消え、声も届かなくなったので、浄霊が完了したかと思っていた。

 

 だが、こちら側より対岸の方が強力らしい。実際、百㍍を越えかなり遠くにあるのに、鮮明な声が届いていた。私だけでなく、家人も聞いているから、「そんな気がした」だけでなく物理的な音だということだ。

 恐らく、TPOが合えば、今でも聞こえる筈だ。

 中心には「あの世」と「この世」を繋ぐ「穴」(または「渦」「扉」)があり、その周囲に幽霊たちがたむろしている。

 かつてのこちら側と違うのは、ごく普通の者も沢山混じっていることだ。

 最も鮮明なのは、右下の母子なのだが、自死者に特有の「闇」が見えぬので、普通の亡くなり方をしたはずだ。(これは自死以外ということで、病死や事故死を含む。)

 

 左上のカーディガンの女性などは、恐らく自分が死んでいることを知らぬように見える。死ぬことが終わりではないことを知らず、心構えなく無防備に死ぬと、往々にしてこうなる。

 夜中に玄関の扉を叩く音が再開したのは、これを見た直後からだ。

 となると、背中の母子のメッセージは「助けてくれ」ということだ。

 そんなのは勿論OKだ。

 繰り返しご供養を施し、慰めてあげようと思う。

 

 だが、それ以前に、私には危機がごく間近に迫っている。

 私を迎えに来るのは、あの「お坊さん」なのだろうが、とりあえず、その「お坊さん」を止めて貰う必要がある。

 これまで何百という幽霊を見付けてはご供養を重ねて来たのだから、そろそろ折り返しツケを払って貰う時だ。

 この世にもあの世にもタダのものは無い。行き場のない幽霊の中には、私が手を引いて導かぬと困る者もいる。

 この母子を見付けられるのは私だけだと思う。。