日刊早坂ノボル新聞

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◎扉を叩く音(続) 音の再開

扉を叩く音(続) 音の再開

 つい先ほど、玄関のドアノブが「ガチャ」と音を立てた。鍵のかかっているレバーを引いた時のあの音だ。

 数日前にかつての音が再発したが、どうやら本格的に始まるらしい。

 前の時とは事情が異なり、今度のは事実上の「お迎え」だろうから、ドアを開けて対面するわけには行かなくなった。

 二度目の「お迎え」が来ると、ほぼ疑いなくアウトだ。

 

 日高の稲荷で会った「お坊さん」とは、あれ以後、接点が生じたらしく、そのお坊さんが寺の廊下を歩く時の板の感触とか、雪が降っているのに板戸を開けて勤行をする時の苦痛とかが、自分の経験のように思える。

 

 もう少しで心不全を発症すると思うので、今は常時ニトロ錠剤を携帯している。病院にいる時間が長いので、その間だったら、助かるかもしれんとは思う。

 だが、あのお坊さんが見逃してくれるかどうか。

 ま、朝晩お焼香をして慰め、気が変わってくれるのを待つしかない。

 最後の手段は「仲間になる」ことだとは思う。

 

 あのお坊さんが私を見る視線は「かあっと眼を見開いて凝視する」感じだったが、それもその筈で、私は幾度も僧侶や山伏だったことがあるのだった。

 私が中学生の時にこんな夢を観た。

 近所の庭の一角に、大石が置いてあるのだが、姫神山に向かう修験者がそこで倒れ息が絶えた。その家の人は為す術もなく、その大石の根元にその修験者を埋めた。

 そんな内容の夢だ。

 母が私からそれを聞き、すぐにその家の人に言伝えたが、その日の内に私はその家に呼ばれた。

 言えの人の話では、私が夢で観たことは、総てがそこで実際に起きた出来事だというのだ。

 そこで私は家の人と一緒に大石の前でお焼香をした。

 それから何年か後に気付いたことは、そこで死んだ修験者が実は私自身ではなかったかということだ。

 もちろん、人格が丸ごと生まれ替わるわけではなく、記憶の断片を引き継ぐだけなのだが、その修験者の記憶も少し継承している気がする。

 自分自身の記憶なので、五十年以上前に起きた出来事を思い出せるのだった。

 

 さて、私はいよいよ漱石シンドロームに突入する。

 あちこちで「得体の知れぬ人影」を目視する機会が増えて行く。

 あの世は世間で言われてきたものや、私がこれまで見て来た者とはまた一段も二段も違うようだ。

 その都度驚かされる。

 

 ま、殆どの人は眼をつぶって死の先を見ぬようにしているから、見えるのは僅かだけ。それでも、誰もが必ずあの世に入る。

 思っていたこととまるで違うから、きっと驚く。