

◎「花は咲く」ノート 天保飢饉の惨状
文政期にも幾度か不作、飢饉の年はあったのだが、天保期にはこれが最高潮に達した。
天保三年から連続して四五年の間は、作物がほとんど収穫出来なかった。
とりわけ、天保五年の飢饉が他の年にも増して酷かったようだ。
記録には「六月になっても霙が降り、九月にはその年の初雪が降った」と書かれている。
旧暦だから、六月は七月の中下旬、九月は十月から十一月だ。
要するに、雪を見なかったのは、わずか二ヶ月間のことになる。
雑草すら生えないから、どこもかしこも茶色の景色になった。
山の滋養が届かぬから、川には虫も魚もいない。当然、鳥の姿も消えてしまう。
一年ならまだ耐えられても、これが数年続くと、もはや持ち堪えられなくなる。
種籾を食い、農作業用の牛や馬を殺して食った。
百姓は富裕な百姓・町人から金を借りるが、もちろん、返せない。結局、土地を手放して小作人に転落した。
幕末には、東北の村々は、ほぼ一軒か二軒の「旦那さま」の持ち物になるのだが、これはこの時の影響だ。これと同様に、町の方では大商人がさらに富を蓄え、豪商になって行く。これが明治以後の財閥の母体になる。
天保五年の記録を見ると、三陸沿岸から内陸に向かう「塩の道」の途中で、旅人や商人が「消えてしまう」事件が起きている。「塩の道」は北上山地を越えて、塩や海産物を運ぶルートだが、山越えの厳しい道だ。今行くと、車一台がやっと通れる幅のところが沢山ある。
度々、行方不明者が出るので、さすがに役人が調べに行った。
山奥のある村に差し掛かったら、周囲の百姓はまさに「息も絶え絶え」の状態だったのに、そこの村人だけ血色が良い。
そこで、役人が百姓の家を検めてみると、家の奥に人間の腕が転がっていた。
その村の住人は、当初、旅の商人を殺して金品を奪っていたのだが、最後はそういう商人や旅人を殺して食っていた。村人で死ぬ者があれば、やはりこれも食った。
その先どうなったかは書かれていないが、おそらく死罪になったことだろう。
あまりはっきりした話が伝わっていないのだが、そこは不名誉な話だから、役人も話が外に漏れないように配慮した。おそらく、白州での取調べなどは行わずに、掴まえた百姓たちはすぐに斬首にされたのだろう。
農産物がまったく採れぬから、百姓同様に侍や町人も困った。
四公六民の割合を五公五民、六公四民に変えても、米が採れていないのだから年貢は上がらない。
さぞ食うや食わずだったろうと思う。
映画などには、幕末の話なのに、下級武士が米の飯を食っている場面があったりするが、「アリエネー」話だ。米の飯なんか食えるわけが無く、せいぜい雑穀の粥だ。
飯が食えず、常に餓死と隣り合わせだから、「こんな幕府は倒そう」と思うに至るわけで、倒幕は義侠心などとは無縁の話だった。
「維新の志士」は少し持ち上げられ過ぎだと思う。理想の前には空腹がある。
脱線したが、天保五年は飢饉のどん底で、盛岡藩もいよいよ金が尽きてしまった。
そこで、加賀藩に倣い、藩札を発行して、急場を凌ぐことにした。
加賀と違う問題は、盛岡藩では、札を出しても、「銭には替えられない」ということだ。
要するに、返すつもりのない借用証と同じになる。ただの紙切れ。
加賀は農産物海産物が豊富で、いずれは返す宛てがあったわけだが、盛岡藩にはない。
文政末から天保、弘化にかけて、盛岡藩主は南部利済(としただ)だったが、歴史上、この人は「暗愚だった」などと悪しざまに書かれることが多い。
飢饉が続いていたのに、藩邸を改築したりなど大掛かりな土木工事を行ったからだが、利済の考え方にも一理はある。
農産物が上がって来ないから経済が回らない。すると、町人らは何の収入の宛ても無く、飢えて死ぬだけだ。そこで、土木工事を行い、作業人夫を雇い入れることで、給金を与えよう。土木工事はそんな考えからだった。
一年、二年なら、アイデアとしては悪くないが、飢饉が断続的に続いてしまうと、疲弊が限界を越えてしまう。
金蔵が空になったので、仕方なく藩札の発行に踏み切ることにした。
もちろん、不換紙幣だから、銭には替えてくれない。
最初は、藩札の実体がどういうものなのかが分らず、商人は普通に受け取っていたらしい。
ところが、この札が大量に出回るようになると、「ただの紙切れ」という正体がばれてくる。
西根町誌を見ると、この時の様子が書かれている。
西根の商人の家に、いきなり藩の役人がやって来て、蔵に封印をした。
「お前の家では、私利を貪り私財を蓄えている。よって、蔵中の物は藩がすべて買い上げる」
没収ではなく、一応は「買い上げ」だ。代金は払って貰える。
ところが、数日後に役人は人足を連れて来て、米や金目の物を馬車に積んだ。その時に、役人は代金として藩札を置いて行ったのだ。
「代金」と言うが、それを持って藩の御金所に行っても、もちろん、現金には換えてくれない。
役所が詐欺を働くようなものだが、それほど「困っていた」ということだ。
しかし、まあ、商人や町人にツケを回して、侍たちは何とかこの一二年をやりくりした。
八戸藩では飢饉がもっと深刻だったから、早々に一揆が起きたし、早くから藩が銭の密鋳に着手した。
葛巻鷹巣には、一千三百人の職人を容する「銭座」が設けられたが、これは八戸藩が隠密裏に作らせたものだとされている。
銭の密造は重罪で、幕府に見付かれば死罪だが、もはやそんなことを言っていられない。
やらなければ餓死するから、まだそれよりもまし。
盛岡藩が銭の密鋳を企画し始めるのは、嘉永安政頃からで、表向き幕府に領内通用銭の発行を願い出て置き、裏では密鋳を画策していた。
浄法寺で鉄銭や当百銭の密鋳を始めたという記録は慶応になってからだが、実際にはもっと早くからやっていた筈だ。
領内では、赤銅の密鋳銅銭が割と沢山出るのだが、製造枚数はおそらく百万枚規模になる。その量の銅材を「誰が用意したか」を考えれば、答は簡単だ。
この時期に藩内で稼動していた銅山は、事実上、尾去沢だけだったら、ここから調達するしかない。他に金山銅山がいくつかあったが、この時期には大方、砂鉄を採るための鉄山に姿を変えていた。左比内も既に鉄山に替わっていた。
盛岡藩は「空手形」の藩札で急場を凌いだが、すぐにこの札は流通しなくなった。
「銭には替えられない」のだから、商人たちが受け取りを拒否するようになったのだ。
そこで、藩は「質屋は拒否してはいけない」と定め、すぐにこれを発布した。
そのせいで、城下の質屋に藩札が殺到し、質屋という質屋が悉く潰れた。
藩札は回収され、小鷹橋(刑場近く)付近の川原で焼かれた、とされている。
(記憶のみで記したので、正確な地名ではないかもしれないが、いずれにせよ、川原であることは間違いない。)
この物語の中心は、これから三十年後のことになるが、伏線にはこういう状況があった。
要するに、天保期には、春に「花が咲かなかった」年が続いた、ということだ。
画像は浄法寺山内座で作られた文久銭の写しと、藩内製造の密鋳寛永銭だ。
ま、手の上の銭を眺めるより、「誰が」「何故」「どうやって」作ったかを推定する方が、はるかに面白い。
また、古文書ベースの話よりも、現物を出して見せる方が、よほど説得力がある。
(以上はあくまで「手控え用のノート」で、資料を引きながら書いているわけではない。記憶のみで書いたので、不正確な箇所が含まれる。もちろん、本編では訂正する。)