日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎花巻馬喰 及川屋清兵衛のこと

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及川屋清兵衛の懐中物

◎花巻馬喰 及川屋清兵衛のこと
 冒頭の画像は通称で「沖口役所」と呼ばれる通行手形だ。
 松前で内地と蝦夷地を人が出入りする時に発行されたものになる。
 幕末の盛岡藩花巻の馬喰だった及川屋清兵衛は、ほぼ奥州全域で商いを展開していた。
 盛岡藩北部の三本木御料場や八戸藩はもとより、山形米沢の商人とも取引があった。
 さらに清兵衛は蝦夷地にも渡り、馬の売買をしていたということになる。
 文字で書くと、あまり感動が沸かないわけだが、当時は北海道と北前船で行き来した時代だ。
 その北前船に「馬を乗せて運んだのか」などと考えると、ちょっと驚く。

 しかし、清兵衛はそれを実際に行っていたようだ。

 

 清兵衛が抱えていた藩札や私札、書状の類がまとめて市場に出た時に、私は幸運にも一切を入手出来た。後で調べると、八戸藩の上納切手や書付にはかなりの希少品が混じっていた。

どうやら清兵衛は取引で鹿角に赴いた折に、その地で亡くなったようだ。
 書き物の出方を見ると、何となく「殺されたのだな」という印象がある。おそらく現金を取られ、足のつき易い私類は隠された。

 前述の八戸藩への上納切手は、記載された額面がかなりの高額だ(何両、何十両かずつ複数回)。
 税としてその金額を納めたとなると、取引の額はかなりの頭数になる。年間で何百頭かを商っていたのだろう。

 花巻の商人のことはほとんど知られておらず、商人の拠点が川口町で、そこに有力な商人が幾人かいたことも、最近になり分った。
 日の目を見させる必要性を感じるので、何か話を書いた上で、資料類はいずれ博物館に寄付しようと思う。