◎古貨幣迷宮事件簿 「米をお金に換える」
今では日本のどこに行っても、人々がほぼ同じ制度および生活習慣の下で暮らしている。当たり前の認識だ。
ところが、わずか百数十年前の藩政期には、それが当たり前のことではなく、藩毎に取り決めがあったし、地域が独自の慣習を持っていた。
侍の中には、自身の領地を与えられ、自領民から年貢を徴収出来る権利を持つ者がいた。こういう者は、例えば城下に住み、内勤で暮らす者と違い、徴税も自らが行ったようだ。
年貢(多くは米)を一定比率で徴収し、それを取り纏めて、その中から上納分を藩庁に送ったのだろう。俸給はもちろん、扶持米だ。
この米を必要に応じ、現金に換えることになるわけだが、一度に大量の米を出すと、相場が下がる。米も相場で成り立っているから当たり前だ。
そうなると、相場をなるべく崩さぬように、「※俵」単位で売却する方が得策だ。
かくして侍の家に、沢山の枚数の「米切手」が残ることになる。これは米問屋が「米を幾ら受け取った」という証文なのだろう。
なお以上は、書き物に目を通して得られた知見なので、実態とは違うかもしれぬ。
私は古文書を専門に学んではおらず、必要に応じチラチラと目を通すだけだ。
江戸の理屈は地方では通用しないのは当たり前だから、この辺は角館の郷土史を研究する専門家に教えを乞う必要がある。
古札類を調べる際の最大の障害は「文字が判読し難い」ことだ。
達筆で誰の目にもそれと分かる筆跡であればよいのだが、「当事者同士が分かればよい」ことも多いから、雑に流して記したものがやたら多い。
名前ひとつ読めぬから困ってしまう。
後の二枚は、「小林」「小野」「小沢」のように見えるが、この地方には「小林」か「小野」だけ。崩し字辞典を引くと「小林」が近いようだが、「角館の小林」を探り当てられずにいる。字を見返すと、どうも「小林」でもなさそうだ。
私の出来ることはここまでで、あとは「現状渡し」で時間とパッションのある人に渡すべきなのかもしれぬ。
追記)弘化弐年の米切手に「小林浄左衛門」の記名があった。同一商人のものと見られ、どうやら「小林」の崩し字らしい。