日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その5」

◎古貨幣迷宮事件簿 「年末盆回しの品評 その5」 

 五日間ほど体調を崩し休養したが、これから再開する。

 出品数は当初より減りそうなので、ポイントを得られた人は「抽選会」でチャンスが拡大することになる。古貨幣に加えて、有馬記念の研究が必要になると思う。

 

 さて、角館は古札研究者や愛好家にとって、「まだ見ぬ楽園」のひとつだ。

 公札のようなものが存在したことは知られているが、如何せん現存数が少ないので、いまだ未知の領域になっている。

 戦国末期には、角館は戸沢家の所領であったが、戸沢氏が移封されこの地を去ったことにより、蘆名家の支配下に落ち着いた。

 戸沢氏は新庄藩の主となったが、一族にはこの地に残ることを望んだ者がいる。

 この古札類はその戸沢氏の末裔の鞍から出たものだ。

 なお、個人名を記すのはどうかと思ったが、大名の血筋であることと、札類に記載があること、あるいはどの家かの特定が困難であることにより、そのまま名称を記すことにした。現在の子孫の方にたどり着くには、それなりの研究年月が要る。

 

 私自身がある程度まで整理、解読して、地元の資料館などに納めようと思っていたのだが、私にはもはや時間がない。精魂を入れて作業するだけの体力がないので、ここで他の人に委ねることにする。

 資料館に丸投げで寄贈することも考えたが、ただ単に持ち込んでも、段ボール箱に入れられ倉庫に入るだけだ。整理や研究は人がするもので、組織は管理するだけ。

 鹿角郡の資料館や役場から「寄贈して欲しい」との要請があれば、もちろん、無料で進呈する。これは「目を通す意思がある」ということによる。

 

 私札コレクターに渡すと退蔵される惧れがあるわけだが、闇に葬り去るよりは幾らかましだ。ま、個人の資格であれば、史料は貰うものではなく自らの手で買い集めるものなので有償となる。これは当たり前のこと。

 

 書き物が記されたのは、元和年間から明治中期までと、かなりの長期に跨る。

 これを取り置いたのは、当事者にとって「重要だった」という意味で、米切手や宗門人別改まで多岐に及んでいる。領民が「恐れ乍ら」と訴え出た書状も含まれる。

 

 自領(徴税権)を持つ武士が実際にどのようにやりくりをしていたかは、文書を見れば分かる。百姓より租税を集めると、決まり通りの分量を藩庁に送り、自身の分を留め置いた。蔵に仕舞って置き、現金が必要な時には、米問屋に一定の量を売却したようだ。米には相場があったから、一度に出さず、なるべく有利な時期を選んで換金するというごく当たり前の措置だ。

 江戸期においても、相場の考え方や対処法は、今と変わりが無かった。

 理屈だけではなく、実際の書状類を通してそれが確認出来る。「きっとそうだろう」と「実際にそうだった」は天地の違いがある。

 

 ちなみに、江戸時代には「角館」を「かくのだて」ではなく「かくたて」と呼んでいたようだ。(正確には江戸期の一時期には、地元商人が「かくたて」と呼んでいた。)

 たったこれだけでも、シビれるほど面白い。

 

 史料的価値からみると、ただ同然の設定だが、コレクターはたぶん買わないと思う。

 コレクターは「誰かが高評価した品」を買い集めるが、自分で知見を切り開くことはしないものだ。勉強するのは手の上の銭だけで、時代背景など関係ない。

 バンクシーの絵の真贋と値段に興味は持っても、バンクシーの人となりに興味を持つ人は少ない。

 あえてここに出すのは、「地元史料館・役場から要請があればそこに進呈する」と知らしめるということだ。 

体力が続けば、以後も続伸の予定。