日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎暴風雨の中の参拝(470)

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12月27日撮影

◎暴風雨の中の参拝(470)

 所用で近くを通ったので、神社に参拝した。

 27日午前中は、かなり強い雨が降り、風が吹いていたから、境内には杉の枝が散乱している。

 ここひと月くらいの間、天候に関わらず、私自身の姿がガラスにまったく映らない状況だったので、自身の状況を観察することが出来ていない。

 きちんと自身の状態が見られていれば、25日のようなことは無かっただろうと思う。

 

 神殿の前に立つと、わずかだが、私の姿が見えていた。

 「ああ、よかった。人間らしくなって来た」

 他の参拝客の姿が映っているのに、私だけ映らないとなると、少しく不安になるわけで。

 となると、25日の体調不良は、かなりヤバいところまで追い込まれていたという意味かもしれん。

 ま、まだ生きているし、こうやって歩けてもいる。

 

 今日の画像は、天候のこともあり、わずかに気配が見えるだけだ。

 これでは、証明とは程遠い。

 それでも、幾つかは「こういうものは、本来ここにはない」というものが出ている。

 画像の中に視線を感じる人は案外いるのではなかと思う。

 時々、ブログを観ている人は、次第に同調していくから、パッと見て「おかしい」と感じるようになって来る。

 

 人間は眼で見て、耳で聞く。視聴覚域は人によって違い、他の人より若干、広い波長を捉えられる者もいる。

 それを「霊能力」と呼ぶかどうかは微妙なところで、私は「特別なものではない」と見なしている。あくまで個人差の範囲で、あとはその人の想像や妄想に過ぎない。

 「眼で見て、耳で聞いている」なら、判断ミスも多々あるわけだし、それほど気にせずともよくなる。そのように「見えた」「聞こえた」で十分だ。

 

 そのことが人間の暮らしにどのような影響があるかという話になると、今のところ「さしたる影響は無い」ように見える。

 幽霊は実態として存在しているが、生きている人間に働き掛けるのは、専ら「こころ」に対してだけで、物理的な力を及ぼすことは滅多に無い(ゼロではない)。

 要するに、生きている者とそうで無い者は、「生息域が違う」ということだ。

 何とか、私の存命中に、「死後の残存自我」が存在することを実証し、ひとの生き方の改善に役立てたいものだ。

 現界(世)と幽界が、二つでワンセットなら、「死ねば終わり」という考え方自体を改める必要が生じる。

 どうやら、人が死んだ後には「生前のツケを払う」ことになるようだ。

 (これは朝、出掛けに書いているので、校正できず。誤表記があると思う。)