




◎霧の中にゾロゾロ (一年前の振り返り)
昨年の十一月五日に、春先(二月)の画像を十数枚も検証していた。
一体、何を確かめていたのかを、さらに確かめると、「人影が増えている」という事態について調べていたのだ。
二月の撮影日は休日だったが、参拝客はチラホラ程度。やはり暦上はまだ冬だ。
神殿の前の定位置に立ち、まず前後の人員配置について確かめた。
前に人は居らず、後ろは二十メートル以上後ろに四人家族がひと組。他はまだかなり遠い。
前に向き直って、ガラスに映る自身の姿を撮影した。
カメラを構えていたのは、八秒から十秒だから、四人家族が階段に到達していた。
二人は私の左後ろで、もう二人が階段を上がったところだ。
①から④まで、照合可能な人影が見える。
ところが、その家族の他にうっすらと人影や顔が見える。
「これは一体、どういうこと?」
そう考えて、画像を検証したのだ。
詳細に検分すると、幾つかは「たまたま」ひとの顔のように見えたものだった。
別の日に撮影した画像にも似たようなものが写っているから、この日だけいない筈の人影が写ったものではない。人形のシルエットだったり、説明板の紋様が顔に見えていたりするだけだった。
ところが、霧がかかったような中に、やはり人影が幾つか立っている。
現実に存在する参拝客の他にも、眼に見えぬ参拝客がいたようだ。
ただ、やはりあまり鮮明ではない。
手元の元画像でも色調整をしないと見えないので、ウェブ掲載画像では確認できないのではないかと思われる。
私の場合、視覚域が若干、普通より広いようで、映画の『プレデター』に出て来る宇宙人のような半透明のシルエットが割とはっきり見える。
第六感・霊感を形成する要素のひとつは、「可視域・可聴域の広さ」だ。
この積み重ね(経験)が基礎になるが、後は大半が「想像」(や「妄想」)による。
想像や妄想で成り立っているであれば、当然のことながらそこには判断ミスも起きる。
たとえ話をすれば、音叉が振動して出す音を聞けるかどうかは、「その耳による」が、その音がどんな時に出る音かを判断するのは、過去の経験と推測(すなわち想像)になる。
いつも書く通り、第六感・霊感は「特別な能力」ではない。
ひとには特別な能力など存在せず、誰もが眼で見て、耳で聞く。
ただ、感応域が人によって多少異なるだけだ。
もちろん、それは「あの世」が存在するかどうかという問題とはまったく別の話だ。
人間の自意識(自我)は肉体が滅んでも、一定期間、残存している。
そしてそれは何らかの「検知し難い物質」が関わっている。