



◎お札を納めに参ります(471)
年末年始は、お寺も神社も混雑する。
そこで「早いうちにお札を納めよう」と、29日にも神社に行った。
見ればどこか分ると思うが、情報が変な風に曲がって伝えられ、神社に迷惑を掛けてはならないから、単に「神社」とのみ記す。ここはいつもゴミ1つ落ちておらず、清浄な場所だ。
生ける者とあの世の者の双方を集める「優れた霊場」と言える。
分かりよい場所にお札を納める箱があったので、ここに古い札を入れ、1千円を納入した。
ちなみに、別の神社のお札を納めても別に問題は無い。
神は「俺のじゃなきゃダメだ」なんて狭量なことは言わず、総てを受け入れる。
大っぴらに書くと、地の利がある神社やお寺に山のように集まるので、そう書かないだけ。いずれにせよ、古いのは焼くわけだし、帰路にそこのお札を貰えばそれでよし。
拝礼を済ませ、気になる場所に向かった。
27日の画像で、石碑の近くに「老女」の姿を見たのだが、それが母に似ているような気がしたからだ。白髪で、グレーのカーディガンを着ていたから、生前の母にそっくりだった。
「でも、ひとは自分の見たいように物事を眺めるものだからな」
例えば、自分のことを自身が認めたいから、他人の業績はすべてみすぼらしく見える。
ノーベル賞なら別だが、大概の業績は「大したことは無い」と思うようにする。
それと同じで、見たいように見ようとするし、実際に見えてしまう。
「でも、それは現実ではない」
真実というと、また意味が違うけれど、少なくとも現実ではない。
当方は25日に著しく体調を崩したが、その日は亡き母の誕生日。
お盆には墓参りに帰れていなかったし、亡くなってまだ2年目だと言うのに、少し母が遠くなっている。
家人にも「お義母さんのために、ケーキを買って来なくちゃダメだよ」と言われていた。
「そういう心に生じた負荷が、俺に母の姿を見させているのだろう」
総ては妄想で、幻覚に過ぎない。
そんなことを考えながら、母がいたと思しき辺りを写真に撮った。
しかし、すぐに気が付く。
「イケネ。あれはガラスに映った映像を写したものだから、画像を反転する必要がある。向きは逆だったのだ」
もはや「あの世」撮影のベテランなのに、こんな単純なことを忘れているとは。
つい先程までは、土手の土色が「たまたま母の白髪に見えただけ」だと思っていたが、反対側の方には、錯覚を起こさせるようなものはなく木々があるだけだった。
「うひゃあ。これじゃあ、また宿題だな」
ま、母のことを想い返しているから、「自分だけに母の姿が見える」のは、あながち外れてはいないとは思う。
「あの世」はあまり生きている者に関わろうとはしないものだ。
よって、判断ミスの可能性が高いわけだが、元々、「霊感は基本的に『気のせい』で、想像や妄想で出来ている」と見なしているわけだし、特に問題は無い。
霊(幽霊)は存在しているが、霊感や霊能力は主観的に構成されるものだ。
実態として存在する霊の状況に合致していようがいまいが、そもそもそれとは関係が無いのだから、何の意味をもなさない。
帰路は「通りゃんせ」を口ずさみながら帰った。
神殿で「今日はお札を納めに来ました」と報告したので、そのフレーズが引っ掛かったのだろう。
「行きはよいよい、帰りは怖い、かあ。この世とあの世の関係に似ているなあ」
今生のツケは、あの世で払う。
「今がよければそれでよし」と思っていると、とんでもないことが待っている。
「生き(この世)はよいよい、返し(あの世)は怖い」
人は死ねば必ず幽霊になるから、「死」はただの折り返し地点に過ぎない。
画像は「私が見たいもの」・「私に(だけ)見せたいもの」で、要するに「気のせい」の領域のものになる。
それでも、こういうのを見逃さないおかげで、まだ生きていられる。
毎晩のように戦国時代の話を書いているが、あともう少し「侍の首を切り落として」いたいので、どんな手でも使おうと思う。