日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊たちの怒り

◎幽霊たちの怒り
 蛇やハイエナは見た目が醜いだけで、単に自分の一生を生きているわけです。
 人間が近くに寄ると噛まれますが、距離を保てば、何の問題も無いです。
 蛇には蛇のハイエナにはハイエナの生があります。これは人間が評価するものではない。

 「あの世」の住人(ここでは幽霊)もそれと同じです。
 執着心に囚われているので顔は怖いのですが、何をするわけでもありません。
 幽霊が取り憑いて凶事が起きる、みたいな話は、映画やドラマの中の話です。
 (もちろん、ゼロではありませんが滅多にない。)

 霊を「恐ろしいもの」と捉える考え方は、ひとが作ったコンセプトで、その張本人は宗教家や霊能者です。見えてもいないし聞こえてもいないのに作り話を語る者がいますが、そのせいで、一般の人は恐怖心を抱いてしまいます。
 理解を妨げ、誤った考えを垂れ流しているのは、そういう自称「宗教家」「霊能者」です。
 「守護霊と話をした」みたいな話には、驚きを通り越して、あきれてしまいます。
 それでも、存在しない者と話が出来るのは、要するに最初から「想像や妄想です」と言っているわけですね。
 また、幽霊を「禍々しいもの」と捉え、除霊・浄霊と称し、念を振り撒いて金をふんだくる自称「霊能者」も同じです。
 そういう者にこそ「祟り」が必要だと思いますね。
 (前に書いたとおり、「祟り」が起きるのは、多く「死んだ後」です。)

 「祈祷師」「霊能者」「霊感占い師」の末路は、「誰かに殺される」か、全身が病魔に冒されて「腐って死ぬ」かのいずれかです。生きているうちに始まるのは早過ぎますので、総てではないと思いますが、何百人、何千人と信者を集める祈祷師は概ねそうなっています。

 幽霊からすれば、ただそこにいるだけなのに「悪」と決め付けられ、祝詞やらお経やらの念の圧力で追い払われてしまう。それなら、誰でも怒ります。
 私は、もし「あの世」を語る宗教家や自称霊能者に会う機会があれば、最初に握手を求めることに決めています。
 もちろん、本物を手渡すためです。
 その能力なるものが事実なら、自分で何とかできると思いますね。

 このことを考えただけで、何故か腸が煮え滾ります。
 もちろん、私自身の感情ではないと思います。ある意味、もはや半分以上は「あちら側」の者ということかもしれません。
 もっとも、私は宗教にも霊能力にも興味はありません。幾度も書いているとおり、総てが「たまたま」であり「気のせい」であり、「想像や妄想」と考えています。
 それには例外がなく、よって自分自身も含みます。

 死者には、まずは「敬意を示す」ことが基本です。
 死者の上に立とうと思ったり、あるいは軽視する者は、いずれ厳しいしっぺ返しが待っています。
 生きているうちは肉体と自我の外郭があり、それで守られていますが、いざ死んで心がむき出しになったら、もはや守ってくれるものはありません。報復はその時に来ます。