◎梅は六分咲き(481)
今年は昨年より割と調子が良くて、たまに発作が起きこそすれ、それほど死期を近くに感じない。そのせいもあってか、お寺や神社に参詣参拝する頻度が減っている。
そこはそれ、「喉元過ぎれば」で、差し迫った危機が見えないと、すぐにその存在を忘れてしまう怠惰な性格のせいだ。
しかし、昨日の朝、心臓を鷲掴みにされたので、さすがに我に返った。
「こりゃきちんとお参りに来いという意味だな」
そこで、息子を駅まで送った帰りに、神社に行くことにした。
晴れて気持ちのよい日で、それだけで清々しい気分になる。
午前中だし、そうそう異変は起きぬ筈だ。
実際、写真を撮っても、私の周りにさしたるものは出なかった。
何もない平凡な一日ほど、幸せなものはない。
帰宅して、画像を丁寧に検分すると、少しは出ていたのかもしれん。
しかし、あまりはっきりせず、これなら「気のせい」だろうと思う。
黒いコートの女性(左側)は、いつぞや首が長く伸びていた女性と似ているのだが、何ら心に響くものもないし、「たまたまそう見えた」だけではないか。
そうあって欲しい。
この女に呼びつけられたりはしていませんようにと願いたい。
あの手のヤツは、いざ見込まれると、結構やっかいだ。
でもま、仮にそうでも、首が縮んでいるから、少しはましな状況に戻って来たのかもしれん。でも、心臓を鷲掴みにするのは止めろよな。
ある知人に親御さんのご供養を頼まれたが、今は思案中だ。
純然たるご供養で、家とお墓を清めるだけ。さしたる問題は無いと思うが、そうでなくとも私はあれこれ引き寄せるので、後が大変だったりする。
でもま、「祓う」のではなく「ご供養」だから、家族としての心構えを伝えればそれで大丈夫だと思う。
人事の問題解決を他人にして貰おうとする人がいるが、そういうのは自分自身の努力で切り開くものだと思う。
神や仏は手を出して助けてくれたりはしない。そう見せかけるのは悪い方のヤツだ。
いずれにせよ、お彼岸が近づく前に返事をする必要がありそうだ。