◎コレクション道あれこれ その5 「当て小判」
「当て小判」に興味を持つようになったのは、比較的最近のことだ。
知人の遺品整理を頼まれた時に、雑銭や道具類の中に相当数の小判型が紛れ込んでいた。
古貨幣収集界では、ほとんど顧られることの無い品で、市場評価も高くない。数百円から数千円の範囲だ。
そもそも古貨幣ではなく、古道具の類だから当たり前の話だ。
「当て小判」の名称の由来は、その用途だ。金座で小判を製作する時に、「枚数の確認が容易になるように、一定枚数ごとに小判型を当てて目安にした」。だから「当て小判」ということだ。
このため、古貨幣収集家は小判型のものを、総称して「当て小判」と呼ぶのだが、しかし、現実に目にする小判型は本来のそれとはまったく異なる。
大半が神社や仏閣で売られたもので、招福のお守りのような意味を持つ。このため、「招福小判」「福小判」や「縁起小判」と呼ばれることもある。
今でも、樹の枝の先に短冊や小判が沢山着いた縁起物が売られているが、ああいった用途だと思えば、実感として分かりやすい。
一番面白いと思うのは、最初の品(その1)だ。この種類は、存在数が割と多く、「当て小判」の中では入手しやすい品だ。概ね数百円から千円も出せば買えるのだが、この品には両替印が打たれている。
しかもその両替印は、本物の小判にも打たれている両替商のそれに極めてよく似ている。
具体的には「井筒屋」という商人のものなのだが、私はこれと同じ極印が打たれた文政小判を所有していたことがある。
となると、この品は本来の「当て小判」の用途で使用されたのでは無いということになる。この場合、この銭種ではなく狭義の「この品」のことだ。
思わず想像してしまう。
「これってもしかして、人を騙す目的で、両替商の印を真似た極印を打つことで、本物と思わせるためにやったのでは」
要するに詐欺目的だ。この銭種は百枚近くあったのだが、両替印が打たれたのはこれだけだった。
もし、これが詐欺目的だとすると、当然、この小判が貨幣だった当時に作られたということになるから、二重三重に面白い。
昔も今も、悪人の考えることはそれほど変わらない。
さて、その後、何年間か、「当て小判」を追い駆けて来た。
皆が軽視または無視するようなジャンルでは、収集が比較的容易で、かつその整理に成功すれば、「最初の人」になれる可能性がある。
どんなジャンルでも「最初にそれを行った」ことほど価値のあるものはない。
ところが、どんなジャンルでも、常に「先に進もうとする者」はいる。
この「当て小判」「招福小判」「縁起小判」のジャンルでも、強力なコレクターがいるようで、オークションでは、まず落札出来ない。
落札価格は様々だが、「落とすまで続ける」者がいるのだ。
私は自分が持っていない品物が出ると、「3千円くらいまで」と決めて追いかけて来たのだが、一度も落札出来たことは無い。
よって、これまで何ひとつ新しい知見が得られぬままだ。
実態が分からぬまま、民俗資料館に行くのか、あるいは散逸してしまうのかも知れぬ。
ところで、「程なく死ぬかもしれん」と思う状況には、実はよいことも多い。普段は先延ばしにして、放置して来たことを、「やり終える」きっかけになるからだ。
今は大慌てで、未整理だったものを整えている。
何せ、ざくざく「持病有り」の中高年なわけだし、感染したら五日と持たんだろう。