日刊早坂ノボル新聞

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◎不思議な大頭通、とそれにまつわる雑感

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不思議な大頭通

◎不思議な大頭通、とそれにまつわる雑感 

 三十年前に、本業で各地を回った折に、「ついでに」と骨董商や収集家を訪ね、「買い出し」業者さんを紹介して貰った。

 その縁が七八年くらい前まで残っており、時々、「こんなのが出たけど」という連絡が来ていた。確実に「蔵出し」の品で、いわゆる「ウブい品」だ。

 骨董では、ここが安くて、正体が分かる度に値が上がって行くのだが、古銭は逆で、「ウブ銭」が一番高い。「買い出し」から直で買うと、寛永銭1枚の単価が50円でも当たり前だ。もっと上のこともあるのだが、「一切触っていない」ということの価値になる。

 もちろん、何も出ないことの方が多いのだが、値のつく品が混じっていることもある。

 そのスリル感が値段になるわけだ。

 そういう品が、次に骨董業者、古物商の手に渡ると、今度は若干安くなる。

 この段階では35円くらい。

 母銭など分かりやすい品は、ここで抜き取られてしまうのだが、細かい分類が必要な品はまだ残っている。ここで買えば、そのまま35円で渡してくれる。

 さらにその品が大都市の業者に渡る時には、「雑銭」として25円から30円まで下がる。

 目のつきやすい役物は無くなるが、小役くらいは残っている。

 さらにネットに回ると、10円15円になる。これは完全に何も残っていないという意味だ。そのままでは売れないから、「蔵から出ました」みたいな話を付ける。

 「いつ」という話は無く、「出ました」だけ。仕舞ったのが先月でも、ひとまず嘘にはならない。正確には「こないだ入れた蔵から出ました」だ。

 

 前置きから脱線したが、そんな付き合いの中で、秋田から銭箱ひとつ分の雑銭を入手した。一部は新聞紙で包まれていたが、これが戦前のものだったから、限りなくその当時に仕舞われたものだ。昭和に入ってからも、一応、寛永銭は現行貨の端くれだったから、割ときちんとしまわれているものもある。

 その中に混じっていたのがこの「大頭通」だった。

 金色はいわゆる「赤銭」で、文政期の当四銭に似ているのだが、面背の表面を研いであるし、内郭の幅が広い。違和感アリアリの品だった。

 

 とりあえず、古銭会に持って行き、回覧に供した。

 すると、様々な意見が出たが、重量に着目し、「贋作では?」とする意見もあった。

 通常、当四銭は五グラム台なのだが、この品は六グラム台の半ばでやや重い。

 製作が異質なこともあり、その違和感が「贋作」という見立てだったのだろう。

 この時、私は「どこからどういう風に出たか」について言及しなかった。

 予断を避け、「見たままで、どう見えるか」を知りたかったのだ。

 ちなみに、率直な鑑定意見を知る別の方法は、「入札に出す」というものもある。回覧に供し、評価して貰えば、鑑定意見が凡そ分かるというわけだ。この場合は、手放す気持ちがさらさらないので、自分自身で競り落とすことになる。

 手数料を払うことになるが、知識の方が価値がある。

 ただし、この手法はよく気を付けて使わないと、手口的に「贋作を本物として売る」ための下準備と似ている。ネットでは、どう見ても贋作の品がそれなりの値段で落ちたりしているケースがあるが、多くは出品者サイドが自分で落としている。売買の実績を作り、本物として売るためだろう。

 

 これが戦前からあるのは疑いないので、仮に「贋作」だったとすると、その当時にこれを作って果たして「売れたか」というのが逆説になる。

 銭種は文政「大頭通」という小役程度の評価だから、贋作を作っても利益は出ない。

 そもそも、昭和のコインブーム以前はほとんど評価されなかった品である。

 何時作られたかは分からないが、おそらく別の目的で作成されたものだ。

 そこで特徴を洗い直すことにした。

 

1)地金は赤い文政色。研ぎ落してあるので、少し黄色が残っている。

2)研ぎ落しが強いので、輪幅が広く、内郭が厚くなった模様。裏を見ると、増郭したようなふしが見られるが、はっきりとは分からない。

3)重量は6.8グラムで、割と重い。明和文政の当四銭は5グラム台半ばまで。

4)輪側には全体に斜めの線条痕が入っている。これで文政銭がほぼ棄却される。

 

 なお、輪側の鑢は摩耗によりルーペでは見えなくなることが多い。このため、輪側を詳細に見る人は少ないのだが、分類を容易に絞り込む手段のひとつになる。今ではマイクロスコープがあるので、観察も容易になった。

 

 最も注目すべきは4)で、昭和の贋作であれば、イ)グラインダで仕上げるか、ロ)鑢目を残さぬように研磨する、のいずれかの手法を取ると思われる。

 これは古い仕立て方で、密鋳銭の手法だ。

 とここまでは、それほど労せずに辿り着く。

 

 問題は「これが浄法寺銭(山内座か民鋳、または称浄法寺銭)かどうか」ということになる。

 何故に「浄法寺銭」を持ち出すのか、その理由は、「山内座の母銭の仕立て方に、面背を砥石で研ぐ手法が存在するから」ということだ。

 これは母銭に面のみ、背のみ、両面に砥石を掛けるケースが見られるが、要するに、「砂が悪く、抜けが良くなかった」ことを踏まえ、砂抜けを良くする目的だったと推定される。

 浄法寺銭では、母銭のみならず通用銅銭にも、あるいは、驚いたことに鉄銭にも砥石を使っているケースがある。当四鉄銭にも砥石掛けを施したケースがあるが、その意図は不明である。

 

 これに類似する現存銭では、大迫駒引きの浄法寺写しがある。これは地金と手法がまったく同じである。現品は手元に無いが、画像はいずれ見つかると思う。

 手元にある品では、称浄法寺銭の方だが、中字の面背、輪側に砥石を掛けた品がある。

 O氏はこれを「母銭改造を目的としたもの」と見ていたのだが、長らく私は反対意見だった。私は「通用銭の出来の悪い品を修正しようとした」のではないかと見なしたのだ。

 しかし、三十年放置しているうちに金色が落ち着いて来た。改めて見直すと、谷に鋳浚った痕跡が鮮明に残っている。

 通用銭の見栄えを良くするためであれば、谷を鋳浚う必要はない。

 1)面背、輪を研ぎ落す →2)谷を鋳浚う →3)文字に刀を入れる(削字) →4)穿内を整える、の順で改造母銭を仕立てるところの「途中の品」だったのだろう。

 (3と4は順番が逆のケースもある。)

 

 以上のことは、山内座の鋳銭方法を考究するうえでも、あるいは称浄法寺銭の出自を測る上でも重要なヒントになりうるのではないかと思う。

 称浄法寺銭のうち、完全仕立て銭の一部は明治初年のものだが、これ以外にも、山内座もしくは民鋳銭との繋がりが解明できるのかもしれない。

 

 さて、以上のことから、当品は「浄法寺大頭通」であるという結論になる。

 その根拠は「地金」の変化と「輪側の鑢」、「面背への砥石掛け」という三つになる。「増郭」痕が確認出来れば、100%近くこの鑑定になる。

 

 追記)「秋田から」と書いてあるが、正確には秋田鹿角(旧盛岡藩領)である。

 骨董・アンティークの世界では、「偽物を本物と見誤るのは仕方がないが、本物を偽物と見誤るのは絶対にアウト」だと言う。そもそも興味のない東京の人が「贋作」に見えるのは仕方がないが、地元の者がこれを「参考品」や「偽物」と見るようでは恥ずかしい。何も勉強していないという意味になる。

 いつも通り校正はしていない。その時間が惜しいためだ。誤変換があると思う。