日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「P17-P19 称浄法寺銭の鋳浚い加工銭等」

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称浄法寺銭の鋳浚い加工銭等 

◎古貨幣迷宮事件簿 「P17-P19 称浄法寺銭の鋳浚い加工銭等」

 称浄法寺銭の発見経緯については、これまで幾度か紹介して来たし、発見当時に書かれたものもあるので、ここでは省略する。

 浄法寺のある人が納屋で発見。秋田からT氏を含め二三氏、岩手からは、S氏、K氏、O氏らが個別に呼ばれ、提供を受けた。

 これが昭和五十年代の初めの話だ。その後六十年台から平成初頭に、同じようなつくりの品が世に出た。

 製作上は、昭和五十年初めが「完全仕立て」「半仕立て」「鋳放し(タイプA)」、昭和末から平成初頭が「鋳放し(タイプB)」になる。

 

P17 称浄法寺銭 長郭写し 完全仕立て

 これと同じ製作を持つ銭種は、本座写しと大字・中字および小字のうち少数枚

になる。技術的には、山内後期銭とさして変わらぬ工法を取っている。穿に棹を通し、輪側を処理しているので、「半仕立て」以降とは作り方が異なる。

 技術的には、否定する理由がない。

 このため、当初は「希少品」「珍品」としての扱いで、四万から五万円台の値が付けられた。

 ちなみに、「完全仕立て」と「半仕立て」の工程上の明確な違いは、「仕立て」が「棹通しをした上で輪側処理をしていること」に対し、「半仕立て」は「棹通しをせずに輪側を処理していること」だ。すなわち後者は「一枚ずつ仕上げている」ということになる。外見は似ているが、工法はまったく違う。

 

P18 称浄法寺銭 中字 鋳浚い

 天保銭は「三百枚程度あった」と言われるが、うち十数枚ほど、鋳浚い加工を施した品が混じっていた。この加工は表面を滑らかにすることが目的なので、通常は「母銭改造を目論んだ」と解釈される。

 称浄法寺銭は、山内後期の少数枚に材を取っているため、大字、中字、小字とも、同じ個所に固有の特徴がある。通用銭を改造して母銭に仕立てたので、様々なサイズの改造母銭が存在する。母銭に改造したというには見すぼらしいが、現実に何段階も小さくなっている。四十五ミリ台のミニサイズの品もある。

 ただ、いずれかと言えば、鋳放し銭類の小型のものの母型に使用したのではないかと思われる。鋳放し銭は銭径の小さなものが多い。

 

P19 称浄法寺銭 中字 鋳浚い 砥石使用

 上掲の品と印象が違うのは、面背や輪の加工に際し、粗砥ではなく普通の砥石を使用しているところにある。

 最初は、鋳放し銭の見栄えを良くするために砥石掛けをしたのかと見たわけであるが、湯口が割と小さいので、台は鋳放し銭ではないようだ。

 恐らく、鋳放しを作るための母型に利用しようと考えたか。谷の部分も潰して滑らかにしようと試みた。

 

 なお、「鋳放し」銭群が「完全仕立て」「半仕立て」群とまったく異なる点は、「湯口が大きい」ことだ。これは、そもそも砂笵づくりの考えが違っていた、ということになる。

 このことについて、当初に買い受けた業者であるT氏は、「一枚ずつ小箱のような砂型に入れた」と見なしたが、見解に誤りがあった。

 湯口の外側は「鏨で落としてある」から、通常の「枝銭に付着していた」ことになり、一枚ずつ鋳造したわけではない。

 常識的には、ひと枝が最低二十枚から二十五枚はあったろう。これは他銭座でも同じで、十枚くらいの枝銭は「貨幣として」作ったものではないと思う。縁起物ということ。

 

 しかし、それなら湯口を何故大きくしたのか。切り離すのに時間と手間が掛かり過ぎるではないか。そう考える方が普通だ。

 この加工は意図的に行われている。

 となると、答えは簡単だ。

 湯口を大きくしたのは、「枝に天保銭がくっついた状態での利用を想定したから」だ。

 すなわち、神社等への奉納用の「銭のなる木」のような品を作ろうとしたと見なす方が自然だろう。いずれの時代でも、この樹木状の差し銭を家庭での飾り物とする利用法は無く、専ら「奉納用」が用途だろう。

 この場合、枝から銭が落ちてはならぬから、必然的に湯口が大きくなる。

 また、銭として整えることをしない。

 よく考えてみれば、これ以外に用途はない。

 収集家向けの贋造目的なら、そもそももっとましなものを作ろうとする。

 

 これを「奉納用絵銭」ではなく「古銭として売ろうと考え、切り離した」のは、製作者ではなく、後代の者ということだ。

 「完全仕立て」「半仕立て」と「鋳放し」の間には、鋳造に向けてのコンセプトがまるで異なる。

 

 ついでだが、鋳放し銭には二種類あり、昭和の発見時には「小字」は「無かった」とされていたのに、平成になりよく似た製作の鋳放し銭が出て来た。「仰寶」「一文ナ文」もこれと酷似している。

 出所を調べたことがあるが、分かったものは総て「浄法寺以外」からだった。

 東京付近を避けて出品されており、岩手県の収集家が持つ品もそこから買い入れたものであって地元で見つかったものではない。

 分かった範囲で言えば、「小字鋳放し」や「ナ文鋳放し」は地元から出た品ではないので、念のため。

 よって、「鋳放し(タイプB)」は「称浄法寺銭」と呼ぶより、「宮城出来」と呼ぶ方が正しいと思う。いずれも宮城県南の一般の人が出していた。(「一般の人」とは、コレクターではない、の意。)

 いずれにせよ、貨幣として作られたものではない。

 もちろん、奉納用絵銭なら、「鋳放し(タイプA)」は、贋作というわけでもない。 

 目的が「奉納用」であり、「希少な貨幣」としてのそれではないということ。

 

 ここにに行き着いたのは、鋳浚い銭を入手し、加工方法を直接詳細に検分できたことによる。これよりきれいに加工した品は早くに手放したが、「出来損ない」のような品の方がコンセプトを推測しやすい。

 その意味では、各銭五万超も出して入手したことも無駄ではなかったと言える。

 ま、所有歴(証拠品)を踏まえて居らねば、何ひとつ語ることが出来ない。

 分かって見れば簡単な話なので、この記事は保存しておいた方がよいと思う。

 

注記)既に足を洗おうとする身なので、推敲や校正をしない。記憶だけで記すので不首尾はあると思う。ブログはただの日記に過ぎない。