日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎お坊さんらしい(508)

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令和二年六月十四日撮影

◎お坊さんらしい(508)

 前回の参拝から少し間が空いたので、所要の帰りに、神社を訪れることにした。

 この日は家人も一緒に行った。

 

 何時の間にか六月が来ており、鳥居には「茅の輪」が出ていた。

 昨年、これを潜ってから、もう一年が経ったということだ。

 時の過ぎゆく速さに改めて驚くが、昨年は心身ともに苦しく、季節を感じる余裕もなかった。

 あれこれとやるべきことが溜まっているが、静養重視で行かぬと、また昨年のようになってしまう。不義理はもちろんだが、仕事にも時々「穴を開ける」くらいでちょうど良いのかもしれん。

 頑張って死んだら、「穴」どころか、永久に出来なくなってしまう。

 「諦めるべきは諦める」のが、生き延びる手段のひとつだ。

 

 雨が降っていたので、境内では「煙玉っぽい」白い雲が出たが、まずは自然現象だ。

 概ね、地下室や洞窟、森の中、雨や曇りの日など湿気の多いところでは、よく写る。

 ま、「煙玉」の考え方は、自然現象も含むから、こういう丸い玉は総て「煙玉(煙状の玉)」と呼んでよいと思う。自然現象など「説明のつく煙玉」が大半だが、時々、「説明のつかない煙玉」も現れる。原因はよく分からない。

 

 「この季節だし、何も起きず、穏やかでよい」

 そう思っていたら、最後の画像では、ガラスの継ぎ目の二重映りする箇所で、左右の人影に違いが出ていた。

 右側は私だが、左のガラスには、頭の禿げた高齢者が映っている。左手の出方も位置がおかしくなっているようだ。指も左右で変わっている。

 外見の印象は「お坊さん(僧侶)」だ。

 何かを求めているようだから、おそらくは「助けてくれ」だろう。

 この季節は言葉が届かぬから、あくまで想像なのだが、仕草を見れば何となく伝わるものがある。

 「あの世(幽界)」では、生前、どのような知識を蓄えていても、何ら役に立たない。

 生きているうちに心を穏やかにし、感情を整える修練を積んで置かぬと、死後は闇の中で彷徨うことになる。

 生前、どんな業績を積んだ人も、功徳の高い僧侶や神職でも、死ねば必ず幽霊になるステップを経る。生きる上では何かと不平等が生じるが、死後は平等に同じ事態が現れるようだ。

 

 こういうのにはすっかり慣れてしまい、何とも思わなくなった。そもそも、見誤りや錯覚も多い時期だ。

 それにやはりこの季節は「面倒な者」が少ない。