◎お坊さんらしい(508)
前回の参拝から少し間が空いたので、所要の帰りに、神社を訪れることにした。
この日は家人も一緒に行った。
何時の間にか六月が来ており、鳥居には「茅の輪」が出ていた。
昨年、これを潜ってから、もう一年が経ったということだ。
時の過ぎゆく速さに改めて驚くが、昨年は心身ともに苦しく、季節を感じる余裕もなかった。
あれこれとやるべきことが溜まっているが、静養重視で行かぬと、また昨年のようになってしまう。不義理はもちろんだが、仕事にも時々「穴を開ける」くらいでちょうど良いのかもしれん。
頑張って死んだら、「穴」どころか、永久に出来なくなってしまう。
「諦めるべきは諦める」のが、生き延びる手段のひとつだ。
雨が降っていたので、境内では「煙玉っぽい」白い雲が出たが、まずは自然現象だ。
概ね、地下室や洞窟、森の中、雨や曇りの日など湿気の多いところでは、よく写る。
ま、「煙玉」の考え方は、自然現象も含むから、こういう丸い玉は総て「煙玉(煙状の玉)」と呼んでよいと思う。自然現象など「説明のつく煙玉」が大半だが、時々、「説明のつかない煙玉」も現れる。原因はよく分からない。
「この季節だし、何も起きず、穏やかでよい」
そう思っていたら、最後の画像では、ガラスの継ぎ目の二重映りする箇所で、左右の人影に違いが出ていた。
右側は私だが、左のガラスには、頭の禿げた高齢者が映っている。左手の出方も位置がおかしくなっているようだ。指も左右で変わっている。
外見の印象は「お坊さん(僧侶)」だ。
何かを求めているようだから、おそらくは「助けてくれ」だろう。
この季節は言葉が届かぬから、あくまで想像なのだが、仕草を見れば何となく伝わるものがある。
「あの世(幽界)」では、生前、どのような知識を蓄えていても、何ら役に立たない。
生きているうちに心を穏やかにし、感情を整える修練を積んで置かぬと、死後は闇の中で彷徨うことになる。
生前、どんな業績を積んだ人も、功徳の高い僧侶や神職でも、死ねば必ず幽霊になるステップを経る。生きる上では何かと不平等が生じるが、死後は平等に同じ事態が現れるようだ。
こういうのにはすっかり慣れてしまい、何とも思わなくなった。そもそも、見誤りや錯覚も多い時期だ。
それにやはりこの季節は「面倒な者」が少ない。