日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎六月十四日の追検証

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連続画像(六月十四日撮影)

◎六月十四日の追検証

 ①から④は先日の画像を撮影した順に並べてみたものだ。

 ②の時には既に気配が出始まっており、④で抱き付かれたようだ。④では、ガラスの継ぎ目で左右のガラス映像が分かれているが、左にも私の左半身が薄く出ており、腕はそれを回り込むように前に出ている。

 要するに、爺さんが暗いところから沸いて来て、私に寄り添ったという動きではないか。

 何故そうするかと言えば、理由は「(この爺さんには)私が見えるから」ということだと思う。

 こちら側からあの世が見えないように、あの世側からも生きた人間は見えない。それがたまたま存在を嗅ぎ取れたものだから、ささっと寄って来るということだと思う。

 ここ数日、「自分がまるで八十歳の爺さんのように齢を取った」感じがあるので、今日の午後も神社に行こうと思う。

 晴れた日だから、先日よりはっきり分かるかもしれぬ。

 

 より実証に近づければ、ひとの生き方を根底から変えることが出来る。

 すなわち、人生は「1」ではなく、「この世」と「あの世(幽界)」の「1+1」でワンセットということ。あるいは「1」と「―1」でワンセット。

 「現界(世)」、「幽界」の他に、自我消失後の「霊界」があるが、これはゼロと同じ。

存在しているが関われない。

そうなると、(1)+(-1)=0と分かりやすい構成になる。

 

 過程論的な表現なら、「『死』には、『肉体の死』と『自我の死』という二段階がある」という言い方になると思われる。