◎夢の話 第796夜 通行止め
17日の午前4時に観た夢です。
我に返ると、列車の座席に座っていた。
「これは・・・。新幹線だな」
窓といい、天井といい、新幹線の車両の中だ。
「してみると、俺はまたこの世界にいるわけだな」
夢の中で俺がいる世界は、専ら俺の記憶を基に再構成されている。
記憶は感情によって作り替えられるから、かつて実際に経験したものとは違うものだが、しかし、「いつも同じ世界」だと認識できる。
そのせいで、俺は自身が「今は夢の中にいる」と自覚出来るようになった。
「あれま。これは上り列車じゃないか」
車両の前の経路表示を見ると、今は東北新幹線を南下しているらしい。
これまでは常に「下り」で方向が逆だった。
すかさずアナウンスが入る。
「フクシマを過ぎると、※※キロ先で通行止めになります」
え。「通行止め」ってどういうこと?
俺のイメージでは、線路の先にバリケードが組んであり、そこから先には行けぬ仕掛けになっている。その障害物の向こうには線路が無く、先に進もうとすれば橋梁の下に真っ逆さまだ。
「こりゃ不味い事態じゃね?」
大体、夢の中の「列車」は、おそらく「人生期」をイメージしたものだ。
車両という器に乗り、どこかに向かって移動するわけだが、その車両とは肉体のことだ。
その中で座っている「俺」は、すなわち自我の核心的な部分で、「こころ」を現わしている。かたや「知能」や「判断能力」は列車の最前部にあるわけだが、もし俺が列車を降りると、それとはオサラバになる。
「それほど遠くない先が『通行止め』なら、意味はそこで終わりということだな」
割と長く楽しませて貰ったが、この列車から降りるのもそう遠くないということだ。
今がフクシマの手前だから、これが最後の駅になる。
「※※キロ」は確か150キロくらいだと思ったのだが、正確な言葉は忘れてしまった。
フクシマからなら、ウツノミヤの手前くらいか。
「でも、そんなのは知らぬ方がいいよな。過去の経験では、自身の死を予期すると、それから先は怖れ苦しむだけになる」
「何時かは必ず死ぬ」が、それが具体的な何時なのかは知らぬ方が楽しく暮らせると思う。
ここで俺は周囲を見回した。
新幹線だから、車内を売り子が回るのかと思ったのだ。
「長距離列車では、景色を眺めながらビールと駅弁。それに尽きる」
でも、新幹線じゃあ、景色が観られない。
この世界で、いつも俺が各停に乗っているのは、そういう理由だ。
初夏なら、花輪線や田沢湖線のディーゼル列車に乗ると、窓から手を伸ばせば、木の葉に触れるわけで。
だが、売り子どころか、車両にいるのは俺一人だった。
恐らく、隣の車両も、そのまた隣の車両も同じだ。
「だって、この列車は俺自身の姿を置き換えたものだからな」
ここで覚醒。
1年ちょっと前に、病棟にいたご老人が「死期臭」を放っているので、「この人もあとひと月」だと思ったのだが、それから持ち直して今まで持ち堪えた。
「死期臭」は死に間際の人から出る、「樟脳や線香と死魚の腐った匂いを混ぜたような」匂いのことだ。
子どもの頃、父の知人が訪問した際にこの匂いがした。そこで、その知人が帰った後、父に「何だか仏さまのような匂いがした。たぶん、あの人は病気だ」と言うと、父は「病気をしてるとは聞いていない」と答えた。
ところが、それからひと月もしないうちに、その知人が急逝してしまった。
あの後、すぐに癌が分かったのだが、分かって数週間で亡くなってしまったのだ。
父が思い出し、「どういう匂いだったのか」と訊くので、「仏壇の匂い、すなわちお線香に似ている」と答えた。
こういうのは、単なる感覚で、「想像や妄想」なのだが、以後あまり外れたことが無かった。
病棟のその老人からは、はっきりした「死期臭」を感じたのに、実際にはそうならなかった。
遠縁の金太郎さんのように、「目の前で『お迎え』が立ったので、『俺はまだ行けないから』と伝えると、それから一年もった」というケースもあるので、幾らか死期も変わるものらしい。
あの病棟の老人は、最近になり姿を消したが、やはり一年くらいだった。
「ソコソコは伸ばせる」という意味では、朗報と受け止めるべきだろうと思う。