日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎どっと来ていた(509)

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令和二年六月十七日撮影

◎どっと来ていた(509)

 この数日、持病とは別に「どこか体が重く、年寄りになったみたい」な気がするので、念のため、急遽、神社に行くことにした。

 あの「お爺さん」のご供養に務めているが、まだ本人(幽霊だが)が納得せず、しがみ付かれているかもしれぬからだ。

 今日は晴天だから、もし写るのであれば、前回よりも鮮明に写る筈だ。

 

 しかし、予め想定したシナリオは「でも何もなかった」というものだ。

 元々、この時期は異変が起き難いものだから、この日の画像はきっとクリアになる。よって、煩わされることなく、ゆっくり眠れる。メデタシメデタシ。

そういう筋書きだ。

 

 神殿前に人気が無くなるのを待ち、写真を五六枚続けて撮った。

 最初の一枚の段階で覗いて見たが、やはり「別に問題なし」だ。

 車に戻り、他のを開けて見ると、「あれあれ。誰もいなかったはずなのに、例によって人影が出てら」。

 割と分かりよいのは、三枚目と五枚目だ。

 三枚目では、私の左肩の後ろから「子ども」が顔を出し、右手を前に回してしがみついている。手の先がかなり鮮明に出ている。

 こういう画像が本物かどうかを確かめる判断材料のひとつは、眼を近づけて見た時と、離して見た時に見える人影が違う、ということだ。この画像を目を遠ざけて見ると、やや「気持ちの悪い」ヤツが後ろにいる。おそらく遠目に見える方が親方だ。

 子どもの方は、必死で離れまいとしている。そこはやはり子どもだ。

 

 「鮮明さ」だけで見れば、五枚目の方が人影だと判断しやすい。

 ロシア人の映画俳優みたいながっちりした男が拳銃らしきものを上に向けている。

 こういう風に、まるでポーズを取っているかのような構図もアリなのか。マジかあ。

 男の左下には、うなだれた女の姿がうっすらと見える。男と関係があるのかどうかはよく分からない。

 五枚目の画像の左端には、煙玉が出ており、その中に複数の顔が詰まっている。

 窓のような役割をして、向こう側の世界を垣間見させているのだろう。

 他にも沢山出ていると思うが、不鮮明だし、詳述すればきりが無い。

 

 子どものことは引き上げられそうな気がするが、他の者にはご供養が通じないと思う。

 まだ聞く耳が出来ていないので、私を見てもいない。

 これは生きている人でも同じだ。耳を塞ぎ「聞くまい」としている者にあれこれ説明することほど時間を無駄にするものはない。

 

 ところで、この数日、「何だか重苦しい」と感じていたのは当たり前だった。半分は別のところで既に拾っていた者たちだ。子どもはN湖で手を差し出していたのと同じ子で、ずっとつき従っていたのではないかと思う。

 本来の姿と意思がはっきりすれば、対処の仕方はある。

 

 先日の爺さんの姿は見えないようだ。こちらは理解したか。

 訂正)ガラス映像で反転するから、「子どもの右手」ではなく左手だった。向きと逆でややこしい。