◎三月十五日の出来事(570解説) その1
美味しいコーヒーを飲むためには、「カルキ抜き」をする必要があるが、水道水を浄化すると、今度は他に失われるものがあるから、あまり美味しくならない。自然水が適しているので、湧水を汲みに行くことにした。
途中で「久しくご供養をしていないから、N湖にも行こう」と思い付いた。車の中を検めると、線香が無くなっていた。そこで、コンビニとスーパーに立ち寄ったが、どちらにも陳列されていなかった。「途中のホームセンターで買えばよかった」と思うが、後の祭り。
仕方なく、そのまま向かうことにした。
ちなみに、私なりのご供養はお線香を一本焚く間に、あれこれと体験談を話して聞かせ、慰めるというものだ。必ず声に出すから、人気のない場所でやらないと「変人」「ちょっとおかしい人」になってしまう。
N湖の周辺は墓地ばかりなのに、店でお線香を売っていないのは、そこに来る人の目的がそもそも墓参りだから、皆が「予め用意して来る」ということだろう。
N湖に着き、車を停める。
もしここが浄化されているなら、これだけは私の仕事(業績)だろうと思う。誰一人、ここが「ジョウロの出口」みたいになっており、「あの世の住人が集まる」ことに気付かない。私はここに来る度に、湖畔でワンワンと話し声が聞こえる。もちろん、誰も見当たらぬ場所で、ということだ。
総ての感覚が普通の人と「ずれている」ようだが、視角聴覚も例外ではない。私に見えるものが同じように見える人はあまりいないようだ。
要するに「変わり者」ということ。
いつも書くが、こういうのは「能力」ではなく「個性」に過ぎない。近視、遠視、老眼のひとを「能力者」とは呼ばぬのと同じこと。この世には「ごく普通の人」しかいない。
最も重要なのは湖の最奥のポイントなのだが、今は工事中で車が入れない。
三番目がレストハウス周辺だから、そこに行くことにした。
店の前の休憩場所に座り、周囲の景色を眺める。
「まさか俺が来ない間に、またもや寄り集まっているわけじゃあなかろうな」
やはりざわざわ感がある。
「助けて欲しいなら俺について来ればよい」
この日は、私の感覚が高まっている時だったようで、すぐさま周囲に細波が立った。
これが何なのかは最近分かった。光や音の進行方向が曲げられ、状況に小さい変化が生じる。これは幽霊がもたらすごく普通の現象だ。
いわゆる「霊感」の本質はこれで、それと自覚しにくいが、視覚・聴覚で異変を感じ取っているわけだ。はっきりと意識できないのだが、特別なものではなく、あくまで視力や聴力の領域だと思われる。眼に見え難いが見ているし、聞こえ難いが聴いている。
休憩所のベンチに座った時に、早くも周囲の視線を感じていたので、数枚ほど写真を撮影した。まだここでは目視出来ず、画像でのみ確認できる。
売店の入り口の窓ガラスを見ると、目視でざわざわと人影が見えて来た。
思わず「スゲーな」と呟いた。思わず周囲を見渡すが、休業日だし、先は通行止めだから、訪れる者は少ない。
もう一度、「助けて欲しいならついて来い。ここで拾い上げるのは俺の務めだからな」と伝える。
その際の画像は二枚目で、日陰にいる私の右肘に肌色の「何か」が着いている。完全に屋根の下にいるから、光が何かに反射したものではない。
ま、常識的には「手」と見なすのが自然だと思う。
私には「女」の顔も鮮明に分かるが、これが見える人は少ない。幾らか「視線」を感じる人はいると思う。
あの世では「心中がむき出しになる」から、幽霊の外見は酷く醜い。
それは生死に関わらず、ひとの「心が醜い」ということでもある。生きている内なら外面を肉体の殻で隠す事が出来るわけだが、心の中はさまざまな欲や他者への誹謗中傷で満ちている。
もし「心の中が見られる装置」が作られたなら、誰も彼も「妖怪」や「化け物」に写ると思う。
人の本性は「悪」だ。「善」はその苦痛から免れるための「杖」であり便宜的なものだ。
希望をもって生きるために作り出されたものが「善」なのだから、いざ死ねば「善」も「悪」も無くなる。
ちなみに、この日は行列が出来そうなほど人影が立っていた。いずれも、「出して見せられる」状態にはないから説明は無意味だ。よって省略することにした
この日はそのまま神社に向かった。
観光ツアーよろしく「一行」を連れているので、お寺か神社で下りて貰う必要があるためだ。
どこのお寺・神社でも良いのだが、日頃馴染んだ場所の方が気楽だ。
一年に百日以上参拝していれば、「引き取ってくれ」と頼みやすい。
神殿の前に着き、最初の一枚目を撮影した。この一枚目が最も「異変」が写りやすい。
以前はここに直射日光が当たっていたので鮮明な画像になったのだが、今は山の木々の背丈が伸び、終日陽が当たらない。
後で分かったことだが、私の周囲にはきっちりと「異変」が起きていた。
あまり鮮明ではないのだが、これが普通だ。
左側に半透明の煙が出現しているが、これが「太い腕」二本に見える。右側には頭らしき影があるから、実際「腕」だろう。私自身の左腕はその「太い腕」の陰に隠れ、確認できない。
時々、私の「片腕だけが膨れ上がる」画像が撮れるのだが、要するに「そこに何かがいる」ということらしい。
複数の人影に抱き付かれているとなると、さすがに薄ら寒いが、そもそも「ついて来い」と伝えたからついて来たということ。
それなら、何ら問題はない。
N湖の異変に気付き、ご供養をするのは、私だけだ。だから、あの地で呻く者たちにとっては、事実上、私が唯一の希望だ。障りなど生じる訳がない。
神社やお寺には、あの世の住人の「通り道」がある場合があるので、幽霊たちがその流れに従って進むことで、寛解(成仏)に近づける場合がある。(続く)
訂正)判断に紛れがあったので、一部を訂正した。少し興奮状態にあったようだ。