日刊早坂ノボル新聞

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◎「説明のつかない」理由(六月二十四日再検証)

 

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どれもサイズが合わない

◎「説明のつかない」理由(六月二十四日再検証)

 少し丁寧に説明する。

 六月二十四日の画像と昨年の画像の配置を調整して、「ほぼ同じ位置」に当てはめてみた。

 すると、老夫婦のサイズで写真に納まるためには、①三四十㍍ほど遠くにいるか、②夫婦のサイズ自体が小さい、という二つのことが考えられる。

 高台から遠方を撮影すると、遠ざかるにつれて、必ず画面の上の方に位置が移動するから、まず①が棄却される。

 次に、③割と近くにいたが、レンズ効果で小さく写った、というケースだが、周囲の環境に合わせてサイズを調整しても、やはり小さい。また十五~二十メートルの範囲でこの位置に写るためには、「空中に浮いて居なくてはならない」ことになる。

 これはそこが階段の上で、地面の高さでは陰になるためだ。

 これで③が棄却される。

 そうなると、残りは②だ。柱の近くに「小さい人影が写っている」ということ。

 そして、そのことの説明は出来ない。物理的な法則に従っていないからだ。

 最も合理的な判断は、結局、これは「説明のつかない現象」だ、ということになる。

 

 テレビには、時々、科学者みたいな人が出て、「幽霊が存在するなどという話は、非科学的だ」と言ったりするが、証拠を上げて検証し、逆説を棄却する手続きを取るのが「合理的」または「科学的」方法だ。

 「幽霊など存在しないからいない」というのはただの同語反復で、「信じたくない」「怖い」ことの裏返しに過ぎない。

 また、それとは反対に、何でもかんでも「霊」を持ち出す者も根本的な誤りを犯している。自称霊能者に同じ現象を見せて、見解を訊くと、各人各様の答えをする。

 もっともらしいストーリーをつける者も多いが、零と交流する「特別な能力」があるなら、いつでも出して見せられる筈だ。あるいは、必ず皆が同じ答えを出す。

 検証可能な状態で情報を提供して、確認出来ない以上、「ただの想像や妄想」と変わりない。

 要するに、「科学を振りかざす偽科学者」も「あの世の恐ろしさを語る霊能者」も、迷信の世界に生きているということだ。

 一つひとつを検証し、そこで確かめて得た「事実」だけが正当な根拠となる。

 

 最後に追加した画像は、昨年の六月八日に撮影したもので、家人と交錯するように「巨大な女」の人影が写っている。ピントが合わないのだが、この手の現象では、対象に「揺れ」が生じるようで、合わなくなることが起きる。

 二㍍近い身長なので、実在の人ではない。かつ朧気でもそれが人の姿だとはっきり分かる。下半身が写っていないこともあり、これも「説明のつかない」現象だ。

 

 幽霊の場合、サイズは決まったものではなく、「時により、大きくなったり小さくなったりする」ということが起きる。

 そのことを説明する合理的な要因のひとつは、「幽霊は『波』と同じ性質を持つ」ということだ。この場合は、音や光のことを指しているわけだが、人間の視聴覚域の境界付近を「幽霊が出たり入ったりしている」現象の説明に関する最も有力な説だと考えられる。

 かたや、かなりレアなケースだが、ドアを開けたり閉めたりすることもあるので、「波」だけでなく、粒子エネルギーのような側面もある。

 この辺は今後の検証次第だが、おそらく「光」に似た何らかの物質が関係しているように思われる。

 その物質を介し、肉体の消滅後も「自我」がある程度、存続されることになる。

 要するに、幽霊(幽界の霊)とは、死後の「残存自我」ではないのか。

 

 もしこれが正しい場合は、「死後の世界」がどのように展開されるかが「検証可能」になるということだ。

 すなわち、研究分野としての「霊科学」が成立するということだが、これはかつて井上円了博士が目指した方向性にかなり近い。

 いずれにせよ、言葉を弄んでも何のたしにもならぬから、「まずは実証」を積み重なることが必要だ。