日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎雨の日の茅の輪潜り(512)

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令和二年七月六日撮影

◎雨の日の茅の輪潜り(512)

 この感覚を理解できる人はごくわずかだろうが、今、私は「悪縁」に寄り付かれている。

 随分と久々だが、多少のご供養では取り除けない感じだ。

 そうなると、暫くの間は困難が続くことになる。

 普段、耳にするのは「助けて」の類だが、今は「苦しめ」とか「死ね」という言葉だ。

 

 これは生きて居る者の「念」である可能性がある。

 「念」は修練によって習得出来るが、「失せ物を探す」「誰かを呪う」みたいな「超能力っぽい」振る舞いは、総て「念」によるものだ。

 「霊域」と「念域」は重なっているから、一般には混同されている。

 

 ま、困難は誰の人生にも起きることだから、「捨て鉢」にならぬことが肝要だ。

 前を向いていれば、必ず悪縁は去って行く。

 「一つひとつ、やれることをやろう」

 「必ず道は開ける」

 これが今の合言葉だ(自分に対しての)。

 昨年は「生き死に」の境目で苦しんだが、今年はこれだ。

 直ちに死ぬわけではないと思うが、考えるべき対策の幅が広い。

 

 雨の日だったが、神社に参拝した。

 さすがに雨の平日で、境内に人は疎らだ。

 車を降り立った時には、心の中に怒りが渦巻いている。

 「もし生きている者が念を使っているなら、そいつの周りを五親等くらい綺麗に刈り取って貰えるよう悪縁を放とう」

 念ではなく、本物の悪縁ならうじゃうじゃいるわけで。

 

 しかし、鳥居に向かって歩いているうちに、そんな気持ちは消え失せた。

 この時期は、いつも茅の輪の内側に猫が待っていてくれたことを思い出したのだ。

 良い思い出は心を浄化する。

 「生きている者にせよ、死んでいる者にせよ、悪意の念を放つ者は、『亡者の闇』の中に落ちる。人を呪う時には、さらに過酷な境遇に己を置くことになる」

 そんな愚かなことは止めよう。

 こういう誘惑も、悪縁が吹き込んで来るものだ。自己を正当化させ、抜けられぬ道に引き込む。

 

 ところで、「茅の輪潜り」の作法はこう。

 まず一礼し、「左足から入り左回りに回る」、「右足から入り右回りに回る」「左足から入り、左回りに回る」。

 その時に唱えることはこう。

 「祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ」

 これも悪縁を遠ざける作法だが、神社によっても少し違いがあるようだ。

 ま、大切なのは心のほうで、謙虚な気持ちで行うのであれば、問題はない。

 

 神殿前で自身を撮影したが、ファインダを覗いた時に、既に人影が見えていた。

 私とは関わりを持たぬ者だ。

 いわゆる「通行霊」なので影響はない。

 左眼が半ば実体化しており、少し飛び出ているから、自死した者だと思うが、ここまで来られればあとはもうすぐだ。

 帰宅してから画像を開いてみたが、この時期で天気が悪いので、やはり鮮明ではない。

 「私には助けることが出来ないが、ご供養して慰めます」

 夕方からお焼香を続けている。

 

 自身に向けられた「悪意」の方は相変わらずだ。

 仮眠を取ったら、早速、「苦しめ」という声が響く。

 まだ相手の姿が見えぬので、かなり強力だが、これも一つひとつ引き剥がして行く他はない。

 相手のかたちが見えてくれば、ささっと対処できるとは思う。

 こういう時の常だが、人との諍いが増える。

 大半の人は、自身の感情が「別の何かに操られている」ことを知らない。

 そうなると、それを分かっている者が大人の対処をする必要があるということだ。

 「この私を憎む者を守ってやらねばならんのか」

 本当は「悪意を十倍にして返す」方が向いているし、楽なのだが、しかし、死んでから延々と同じことをするのも嫌だ。

 もはや実感として、「死はただの折り返し地点」だと分かっているので、そこまで見通して振る舞う必要がある。

 

 今朝、ようやく『鬼灯の城』の原稿二か月分を送った。