日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎七月の品評 (その3)

f:id:seiichiconan:20200715171720j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171708j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171658j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171635j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171622j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171610j:plain
f:id:seiichiconan:20200715171557j:plain
七月出品 S12-16

◎七月の品評 (その3)

S12 和同の写し

 元は雑銭から拾った品だ。細縁でもあり、「絵銭」と思っていたが、文字の配置がぴったり本銭と同じになっている。書体が様々あるから、なおさら難しいが、どうやら面文を起こしたもの(絵銭)ではなく、本銭から写した品のよう。となると、製作時代により判断が分かれ、江戸の初期くらいまでなら「鐚」、それ以降なら「写し」となる。

 ひとまず江戸の「写し」としておく。下値は江戸期の絵銭程度でスタート。

 長期にわたり見て楽しむことが出来る。

 

S13 瓢箪駒、大瓢箪駒寛永、二種組

 この図案はかなり古くから存在し、江戸期の古銭譜にも掲載されている。

 左の瓢箪駒はおそらく江戸物。右側は瓢箪のサイズが極めて大きく、絵銭譜未収録品のようだが、明治以降の地金ではないか。意匠自体はかなり珍しい。

 

S14 群馬大黒

 馬が群れている向こう側に大黒が鎮座している。木型を掘り、それを押して作った。

 それで通用を作成しているので、明治中期から大正初期の作ではないか。

 意匠自体は、なかなか見掛けぬ品だ。

 

S15 陰刻宝珠稲荷

 これは割と有名な絵銭だと思う。前蔵主は「絵銭譜未収録」と見ていたようだが、江戸期の古銭書に掲載がある。書物は総て処分したので「どの古銭書に」と書けぬが、調べるのは難しくないと思う。

 こういう感じの背はかなり古い。

 

S16 俯き駒

 意匠が浅く打印銭のよう。

 素朴な絵銭だが、古く珍しい。明治以後は、はるかにきれいなものが作れるので、この手のは品はほとんど作られなくなった。

 素朴な味わいがある。

 

 S13-16は水沢の故K村さんの旧贓品だ。

 K村さんと最初にお会いしたのは、既に三十年以上前だが、当初、私は顔を合わせる度に小言を言われた。元々、偏屈な人だが、高校の大先輩にあたるということもあったのか、いつも厳しい口調で注文を言われたのだ。

 大先輩だけに言い返すわけには行かないのだが、私の方も偏屈なので、「いずれ必ず言い負かしてやろう」と思い、研究会に足を運ぶことになった。

 古銭の知識では追いつけないので、資料検索の方に重点を置いたのだが、そのうち、K村さんが敬意を払ってくれるようになった。一年くらいすると、割と気楽に話ができるようになっていた。

 東北の古銭に関する知識はもの凄い深さだったが、売価も偏屈で、正直、かなり高かった。

未見品や存在数品程度の希少品は元々、市場が立たず値段が無い。

 そこで高い位置から徐々に下げて行くうちに、その品の存在を周知させつつ、合意形成を図る。K村さんの売却法はそういうやり方で、すこぶる合理的な方法だった。

 晩年には、南部銭の秘密も幾つか聞いたのだが、なまじっかそれを知っていたので、『南部銭誌第一集』は結局作成出来なかった。

 地元から誤謬含みの説を流布するわけには行かないので致し方ない。

 「結局は道楽なのだから、好きにやるとよい」ということだ。

 今後は大先輩であるK村さんのスタイルを引き継いで、全部こき下ろして行こうと思う(大笑)。ま、それ以前に、収集者の集いに足を踏み入れることはもはや無くなった。

 

 絵銭類もK村さんの付け値は、概ね五万十万だったから、遺品を買い受ける際に思案して四割前後にして貰った。それでもしんどかったようだが、まあ、これは絵銭の収集家自体が少なくなったこともある。

 今となっては大赤字だが、それもご供養のひとつだと思う。

 

 今は表立って偏屈な人ないなくなり、陰口を言う人ばかりになった。

 骨董愛好家からは、「古銭収集家のケツの穴はせいぜい寛永銭の穴くらい」と言われるが、まったくその通りだと思う。さらに縮小して五円玉くらいか。