◎俵結びの鉄銭
今現在、コレクションの処分を進めているが、自前処理分だけでなく、他媒体にも出すので、作業は煩雑だ。
ま、四割近くは、資料館なり博物館に寄付することにしている。
体を決定的に壊してからは、もう五年以上、「売り一本」で来たが、まだ書庫の奥や、ストッカーからコインや札が出て来る。
近代貨に至っては、部屋ふたつ分だ。ま、こっちは売れないだろうから、寄付するなり、進呈するなりで減らしている。
とりあえず、自室の片づけは半分くらい終わり、ようやく床が見えて来た。
書物や雑銭を処分すれば、かなり広くなると思う。既に峠は越えたから、もはや気が楽になった。
今日、段ボールを除けると、小袋が出て来た。
中身は「俵結びの鉄銭」だ。これは前々から探していたから、助かった。
確かめたいことがあったのだ。
端々に密鋳銭が混じっているので、奥州のものだと分かるのだが、「ひと括りが果たして何文か」を確かめる必要があった。
幕末から明治初年辺りでは、鉄一文銭の交換相場は、「銅一文に対し、鉄六文か八文」の相場になっている。
これは果たして何文なのか。
実際に確かめると、「概ね十六文前後」だった。
勘定が合わないので、ここで考えさせられる。
江戸期の貨幣は、定位貨幣と秤量貨幣の双方のカウントの仕方がある。
金一両は、定位勘定では「一分金(または銀)を四枚」だが、秤量勘定では銀九匁二分だ。後者には相場があり、その時々によって少し異なる。
鉄銭も双方の性格がある。
鉄は素材として、農具にしたりと用途が広いからだ。
銅鉄交換相場で、奥州北部では「銅一文に対し、鉄六文か八文」という数え方もあるが、どうやら、斤量で換算する方法もあったようだ。
かつ、「後者のケースの方が多い」。
実際、この鉄銭を解いて確かめると、枚数には差があるが、斤量は同程度となっている。おそらく「斤量遣い」の方だから、枚数が十六枚から十八枚ということになる。
しかし、よく考えると、鉄十六枚なら「銅二文」でも良さそうだ。
「これはこうだ」と決定するのには、証拠不足のきらいがある。
幕末明治初年において、江戸の常識は地方では通用しない。
幕末に北奥を歴訪した人の旅行記が残っているが、ある地方で代金として一朱銀を出したら「これは金か」と言われた、という記述が残っている。