


◎一年前の振り返り
画像は昨年の八月のものだ。例年、六月から八月はほとんど異変が起きない季節になるが、九月が近付くと少しずつ始まる。
最初は木々を撮影した画像だ。何となく、木柵の向こう側に女の顔があるように思い、拡大してみると、実際には顔ではなかった。
柵の手前に半透明の人影があり、これがたまたま顔のように見えていたのだ。
「柵の手前にいる」ことは、柵の途中を半ば消しているで、それと知れる。
幽霊を目視する時は、こういう風に見えることが多い。
映画の『プレデター』に出ていた宇宙人のように、半透明なのだが、微妙に光の屈折率が変わっている。
幽霊が朧気なのは、光の波長域が人の目視可能な境界を「はみ出している」せいなので、必然的にそうなる。
犬や猫の可視域は人間とずれているから、人が検知できない存在を見ることが出来たりする。
犬猫だけが反応し、誰もいない空間に吠えたりするのは、そういう意味だろう。
帰路に神社に行き、いつも通り、ガラスに映る自信を含めた画像を撮影した。
すると、山の中腹にある石柵の傍らに人の姿が写っていた。
気になったので、後でもう一度、同じ場所を直接撮影したが、やはり何もなかった。
母を知る人なら誰でも同じ意見だと思うが、これは母だと思う。
七十代の後半くらいで、着物を着ている。
額のところに黒い点があるので心配したが、間に別の者が立ち、私を見ていたようだ。
正確には、その「別の者」は私の周囲の煙玉のことを見ていたのだろう。
母の姿を確認してからは、「あの世から見守ったりせず、先に進んでくれ」と願うことにした。
愛情から子や孫を案じて姿を現したにせよ、長くそのままでいると執着心に変わる。
そうなると、結果的に寛解(成仏に同じ)が遠くなる。
生きている者は、死者に感謝の気持ちを伝え、先に送り出してあげるのが正しいご供養の仕方だと思う。
ちなみに、「執着せず、先(幽界から霊界)に進むこと」が般若心経の本来の意味になる。お経は諳んじるものではなく、意味を考えるものだ。