日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎お盆なので(595)

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令和三年八月十五日撮影

お盆なので(595)

 今日は八月十五日だが、墓参りには行けぬので、ひとまず滝不動にお参りした。

 不動明王は、これまで幾度も危機を救ってくれた仏だ。もちろん、あの姿で存在しているわけではなく、あくまで理念ということは承知している。

 だが、ものが見えぬ者にとっては、具象的なイメージが無いとわかり難い。

 そのことも理解できる。この世とあの世の理(ことわり)に到達できた者は限られる。私もまだはるかに遠い。

 ここでは母が安らかに眠れるように祈った。

 

 そこからいつもの神社に向かった。

 もはや私にとっての秋は始まっている。

 あの世からの働きかけがどんどん増えて来ると思う。

 今はこんな世情だし、普段の年とはまた違うと思う。

 

 雨なので、姿を目視し難い状況だったが、傍に来ていることは分かる。

 見極めのポイントは、まず1)景色が著しく歪む。2)自身の体のかたちが歪む、という流れだ。

 そこで何かしらの異変が分かる。

 あとはそれが自身に関わろうとしているかどうかを観察することだ。

 

 あの世の者は、自己の存在(または正体)を悟られたくないので、極力、姿を隠す。

 その場の物や人に似せたりするわけだが、巧妙に姿を隠す者の方がやっかいなので、十分に気配に気を付ける必要がある。

 普通のひとは「見えないからいない」と思いがちなのだが、見えぬ者の方を警戒する必要がある。

 基本は「眼には見えぬ者」たちだ。

 屋根が歪んでいることと、その屋根の一部を消す黒い何かがあることで、人影が見えずとも、そこに何かがいると分かる。

 可視域の少し広い者には、それが人影で、前にいる私の姿に似せている様子が見えると思う。

 

 神社でファインダを覗いた時に目視したのだが、ふざけたことに、一匹はピースサインを出していた。

 こちらを「試している」わけだ。

 画像には残っていないが、もうこのジャンルではベテランなので、もちろん、そのことを把握している。

 画像よりも、眼で確認する方が確実になっているのだ。

 「もう何千回もお前らを見ている。俺を甘く見るなよ」と呟いた。

 しかも、私やアモンが説くのは「愛」などではなく「因果応報」の方だ。

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