日刊早坂ノボル新聞

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◎8月23日雑銭の会 例会報告

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◎8月23日雑銭の会 例会報告

 数年ぶりに「雑銭の会」定例会を開催することにした。

 そこで、かつての登録会員のうち、主に首都圏在住者を中心に、住所の分かる幾名かに案内状を送付させて貰った。名簿は個人情報保護の観点から既に廃棄してあるので、年賀状等で調べることの出来た方、十名程度だ。

 もちろん、昨今のコロナの影響を鑑みなくてはならないので、「なるべく来ないでください」という但し書きも添えている。

 例会を招集しておいて、「来ないでください」は変な話だが、今はネットがあるから、そちらのやり取りで済む。

 

 わずか一週間前の招集だったので、「もしかすると、誰も来ないかも」と思っていたが、連日35度を超える猛暑の中、幾人かがいらして下さった。

 数日前の告知で、案内状送付が十人程度の割には出席率が高い方だ。

 今はコロナ対策で規定人数の半分しか入れないから、十八人部屋では九人が限界人数だ。

 出席は六人だったから、概ねちょうどよいサイズだった。

 

 雑銭の会は大仰な「挨拶をしない」ことと、「収集は道楽のひとつに過ぎず」というスタンスだから、特に議事進行のようなものはない。

 簡単な状況説明の後に泉談を開始し、頃合いを見てボイスオークションを開始した。

 「あまり参加者はない」ことを前提に持参品を限定したが、それでも「持病有り」の者には少々キツかった。

 しかし、こういう状況で「私自身ならどう対応するだろうか」と自問すれば、答えは「最低でも百万くらいの資金を持ち、駆け付けるだろうな」というものだ。実際、お一人は同じ考えを持ち、現金を持参されていた。

 希少品が出る可能性があり、その場合、現金が無くては入手機会を失ってしまう。

 「ここぞという時は押して出る」のがコレクターとしての心構えだ。

 重要なのは「押し引き」で、押して出るか静観するかを瞬時で判断しなくてはならない。

 (ちなみにここは「駆け引き」ではないので、念のため。)

 業者や入札・オークションでのみを相手に収集をしていると、1件ずつ「手を止めて考えてしまう」のだが、「蔵開け」や「骨董会」では、そんなことをしていたら、何ひとつ得られない。瞬時に判断して、押すか退くかを決められるかどうかが勝負になる。

 

 今回のテ-マのひとつは、「近代貨の処理方針を決定する」ことだった。

 雑銭の会には近代貨を収集している会員が数名で、おそらく一人は告知を見る。

 その会員から連絡が来た際には、「今日はあなたが相手だからね」と伝えた。

 状況についても、泉談の折に「25年前に買い入れた近代貨が出て来たこと」、「主に金融機関の金庫から出たロール割りか袋入り」の品だと伝えてある。

 ウェブ経由の反応や当日の感触により、手持ちの近代貨の大半は地金業者に渡る。

 いつまで金銀価格が高値でいるかは分からないし、その地金よりコイン評価の方が低いのでは、「早いうちに地金処理しろ」という結論になる。

 当日、Mさんにも話したが、「ここは考えるところではないよ」ということ。

 数秒の間でも躊躇したら、「次」は来ない。

 ちなみに、添付画像の品が「かなり沢山ある」が、数日中に地金業者かリサイクル業者に向かう。年内で収集品の処分を完了し、その時点での残余分は博物館等に寄付する予定になっている。

 幾らくらいで買ったかはあまり記録しない主義だし、記憶間違いでトラブルになったりする。だが、銀貨の「大量買い」の基本は、地金買いだから、今のような高値なら地金で損は生じない。

 

 母は亡くなる半年前に私を呼び、自身の服や装飾品を出して、「これは誰それ、こっちは誰それに」と分与を指示した。

 当時は「母はついに腹を括ったのだ」と悟り、悲しい思いをしたが、母の毅然とした姿には学ぶところがあった。生き方、死に方の手本はごく身近にあったのだ。

 

 やや脱線したが、泉談はいつもながらエネルギッシュだった。

 あまりにパワフルなので、「人生にはさして必要でないことにここまで燃えるとは」とからかわせて貰った。

 「では次回ね。11月頃に」との要望があったが、さすがに「次」の約束は出来なかった。

 電車に乗り都区内に入るのは2年ぶりくらいで、正直、キツかった。

 

 画像は金融機関の金庫から出た小型五十銭銀貨だ。ご丁寧に「ロール割りか袋入りだった」と教えてくれている。要するに極美から未使用の範囲で、これを地金で売ってくれると言う。この条件で、いったい何を躊躇するのかが分からない。

 ここで思案するようでは、旭日や龍五十銭以降が出て来ることは無い。ここは想像力勝負で、「手の上の銭ばかりを見るな」と常々言う通り。

  

◆泉談の一部紹介 ※少し補足を加える。

「盛岡八匁銀判」

 よく「製造期間は慶応四年三月から九月の半年間」と書かれているが、実際はそれより短い。債務に対応するために、通常、一両には九匁二分の銀が相当するのに、七匁や八匁の量目で一両として受け取らせようとした。

 実際にはほとんど市中流通しておらず、各代官所や銭座に見本として渡したものと、盛岡市内の御用商人に代金として下げ渡したものだけが出所になる。

 このため、両替印が「無い」か「一個だけ」であることが普通。複数あれば希少品で、未使用より価値がある。

 ・「隠し」はあまり重要ではない。これがあるものも無いものもある。隠しのある偽物もあるので、あてにしてはならない。

 ・未使用状態ではなく、面背で「あの特徴を確認出来る」ものを入手すること。きれいな品は概ね後作品。収集家は美銭を好むが、この場合、「飛び込み自殺」になりがち。

 

 ちなみに、地元収集家が作成した『南部贋造銭図譜』という私本が存在するが、これには地元後作品の詳細が記載されていた。私は元郵便局員の「あの方」のお宅に呼ばれた時に見せて貰ったが、まさに「衝撃」だった。

 

「宮福蔵作」

 宮福蔵は県の職員で、勧業場の殖産興業部門の担当だった。伝統技術の掘り起こしのため、南部鉄瓶や鋳銭職人との交流を持ったが、そこで鋳造技術に精通するようになり、古銭を創作した。

 「背モ」「下点盛」といった銭種の根源を辿ると、総て宮福蔵に到達する。

 

短足宝米字極印打」 上棟銭の類。

 上記の元郵便局員のあの方に聞いたところでは、ご本人または先輩が「直接見た」として、「総てが南部藩お抱えだった飾り物職人の道具箱から出た品」という話だった。

 よって岩手県の収集家から戦前戦後に出た品は、基本的にこれが出自となる。

 ところが、今目にすることが出来るのは、ほぼ「昭和の作品」。

 K会長や、上記元郵便局員の某氏が打ったもの。

 戦前には、上棟銭や木戸銭のような目的で、打極銭が沢山作られているから、飾り職人自体は注文に応じて作成したものだろう。

 これが着目されるようになったのは、昭和五十年代からで、大正期以前にはいかなる銭譜にも掲載が無い(当たり前)。

 『南部貨幣史』や『天保銭図譜』(青宝楼)にも記載がなかった。

 古貨幣自体はファンタジーの要素があるから、「銭座で作られたものではない」ことを承知していれば、どう評価しようと持ち主の勝手になる。

 ただし、「ほぼ昭和のもの」で「盛岡藩のものではない」ことはきちんと押さえる必要がある。

 

 ちなみに、今後は「外に出て、散々、古泉界の悪口を言うようにします」と宣言した。もちろん、冗談だが、要するに「気にしない」「配慮しない」ということだ。