日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎今年も「秋」が始まる(537)

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令和二年十月二十六日撮影

◎今年も「秋」が始まる(537)

 月末なので月曜はあれこれと支払いに追われた。

 何せ割と固い飲食店や観光産業が底知れぬ苦境にたっているくらいだから、サービス産業の片隅に生きる者は死後とも収入もほとんどない。この調子ならもうじき破産だな。

 そろそろ都市銀行の本店を襲う計画を立てねば(冗談だよ)。

 

 CD機を長く塞ぐものだから、街中はダメ。こういう時には山の中にあるゆうちょに行くことにしている。待ち時間ゼロだし、後ろに人が並ぶことが無い。

 それが終わった後で庚申の湧水を汲みに行くと、やはりいつも通り、人が来ていた。

 ポリタンクを四つも五つも持参して来るのだから、「こりゃ長く掛りそう」と見たが、途中でその女性二人組(一人は外人)が「先にどうぞ」とのこと。

 お言葉に甘えて、先に水を汲ませて貰った。

 バスを待つオヤジが「やっぱり自然水はカルキ抜きをしたのと違いますか?」と訊いて来たので、「全然違いますよ。生サンマと缶詰くらいの違いがあります」と答えた。

 大体、自分に合う自然水を探せば、当方のように、数か月の間飲んでみたら「胆嚢と脾臓の腫瘍が消失した」みたいなことも起こり得る。

 

 あれやこれやと時間を使い、すっかり夕方になってしまった。

 それでも、やはり神社に参拝して置こうと、いつもの神社に向かった。

 駐車場に車を入れた時には、もはや薄暗くなっている。

 鳥居を潜ると、周囲には誰もいないのに、声が聞こえて来た。

 「カヤカヤ」「コソコソ」と男の声がして、次に女の声。

 「※※▽◆〇じゃないの」

 まだ社務所が開いているから、そこから聞こえて来るのかと思ったが、声自体は左の水天宮の山の方から聞こえている。

 参道の右手の方には、誰かがこっちを見ているような気がするし、こそばゆい。

 

 「そう言えば、もう十月も終わりだ。いつもの季節が来るということなのか」

 例年、神無月が来ると、「あの世」が騒がしくなるのだが、もう今年も間近に来ているわけだ。

 ちなみに、この場合の神無月は旧暦だから、今年であれば十一月の終わり頃だ。

 その頃になると、煙玉が乱れ飛び、幽霊が頻繁に顔を出す。

 

 猫のトラが生きていた頃は、トラに会いたくなるとすぐにこの神社に来たものだ。

 夜中の一時過ぎに参拝に来ても、トラは鳥居のところで待っていて、すぐに駆け寄って来たものだ。

 猫は暗闇でも眼が見えるし、匂いにも敏感だから、四五十メートル離れていても、私に気付き一目散に走って来た。

 「ああ。もう独りぼっちだな」

 何だか悲しくなる。

 

 帰宅して画像を開くと、あれこれ残っていた。

 人影の判別は難易度が高く、赤外線可視域が広くない人はほとんど見えないと思う。

 私は「光を歪める黒いシルエットがある」ことについては、かなりの精度で見極められるようになって来た。

 シルエットだけの影が「黒いひと」なのだが、これは肉眼で目視した方がはっきり見える。いつも記す通り、映画の『プレデター』のように、光の屈折率がそこだけ違う。

 ここで初めて、「最初に聞こえた声もそれだったのか」と気付く。

 「声」は、先方から「こちらが見えるので、急ぎ声を掛けて来た」ということが殆どだ

 多くは「助けて欲しい」というものだ。

 画像は「目の錯覚」であることも割と多いのだが、「声」は割とはっきりしているし、複数が同時に耳にすることも多いようだ。

 

 煙玉の出始めは、いつも同じ。

 最初に光の強い玉がひとつ出る。その次に周囲から渦を巻くように小さな玉が現れ、数が増え、大きくなる。

 大体は私の周りに集まるのだが、少し経つと消えて行く。

 画像を見ると、最終段階では玉の中に「顔」が浮いて出ている。

 もちろん、これが出るのは、「何か怖ろしいことが起きる前触れ」みたいな気がするわけだが、実際はそんなことは起きない。

 毛見り玉の多くは自然現象だし、説明がつかないケースでも「あくまで付帯的な状況」を示すだけのものになる。

 

 それでも、その場を離れようとした時に、後をついて来たりするので、慣れるまでは少し「(気持ち的に)退く」と思う。

 だが、「敬意を示すこと」「怖れぬこと」を守れば、どうということはない。

 

 今日くらいの内容であれば、「気のせい」と見なすだけで良いと思う。

 だが、私は声を掛けられている当事者なので、私にとっての意味は違う。