




◎「霧の中から」 一年前の振り返り
時間が経つと、同時進行的には分からなかった状況が、次第に見えるようになる。
興奮が冷め、冷静に見直すことが出来るようになるわけだ。
そこで、一年くらい前に経験した「説明のつかない」出来事を振り返るようにしている。
画像は昨年の十二月初めに撮影したものだ。
既に午後四時を過ぎた辺りで、この日は曇っていたから、薄暗くなっている。
境内には人が居らず、神殿内で七五三のお祓いをして貰う家族がいるだけのよう。
神殿の前で撮影すると、周囲に人がまったくいなかったのに、右手に男の後ろ姿が写っていた。両耳が見えており、疑いなく人間のシルエットだ。
相撲取りかレスラーみたいながっちりした体をしている。
「ま、こういうのは通行霊だから、特に問題なし」
そう思ったのだが、「男」の向こうに視線を向けると、なにやら別のものが見えた。
遠目だと、髑髏のような顔をした「何か」だ。
「まるでT8000みたいだな」
SF映画並みだが、特に驚かない。
幽界では、生き延びるために同じ心持ちを有する魂が同化合体し、自我・自意識を強化する。それを繰り返しているうちに、かたちが徐々に変化して行く。
元々、心象で形成される世界だし、悪意が強くなれば、「妖怪」にも「獣」にもなる。
しかし、遠目では髑髏だが、接近すると事情が少し違うようだ。
複数の視線があちこちから見ている。
また、画像を拡大すると、まったく別のものが見えて来る。
「ピントがうまく合わない」「拡大縮小で見え方が異なる」みたいなことは、この手の写真にはよく起きる。
ただ、「レスラー」は完全にその場に存在しない「説明のつかない」像だと言えるが、髑髏顔は、「眼の錯覚」の余地を残している。
これは「そんなもんだ」と思えばよろしい。
さらに拡大すると、霧の中にシルエットが浮かんで来る。
「これは幾度も見たことがあるなあ」
女性と子どもからなる二人ひと組の人影だ。この場で幾度か目にしている。
女性の方は、いつも私の方を見て手を合わせているのだが、やはりこれもそうなのだろう。
「助けてくれ」という意味だ。
周囲はまるで「幽界の霧」のよう。
テレビの「放送休止」画面に似ているが、それと違うのは、時々、人の顔や姿が浮かんで来ることだ。
ちなみに、第六感(想像や妄想)を高めるには、「放送休止画面を眺める」という手段もある。あのザラザラした画面や、「音」が刺激になる。とりわけ「音」の方は、「静寂の音」によく似ている。
可視域との兼ね合いもあるから、何も見えぬままの人が多いと思うが、もし見方のコツが分かってしまうと、後が煩わしくなるから、あまりお勧めはしない。
と、ここまで来て、最初の画像から全部繋がっていることが分かる。
同じ位置に異常が出ているわけだが、そうなると、最初の煙玉状のヤツは純然たる自然現象ではなく、「男」や「霧」に関係しているということなのだろう。
「男」は「まだ準備が出来ていない」ので放置。まだ自分だけの世界で暮らしている。
「母子」はこれが「幽霊」だろうが「眼の錯覚」だろうが、ここは「ご供養をする」のが「地獄のセオリー」だ。
少なくとも、私自身の心が少し軽くなる。
色々と「しちくさい言い訳」をごねるより、さっさと認めて先に進んだ方が改善に役立つ。
ちなみに「地獄のセオリー」とは、次のよく知られた問答だ。
「悪いことをしたら地獄に落とされ、永遠に苦しめられる。さてどうすればよいか」
これが最初の質問だ。
しかし、回答に繋がる選択肢は幾つかある。
「地獄がある」「地獄が無い」のいずれかと見なすことで、考え方が違って来る。
「地獄が無いなら、何をやっても構わない。死ねばそこで終わり」
こういう意見もある。
だが、表のとおり、最も効率的な対処法は、「それ(地獄)があると思って対処する」ということだ。そのことで「苦しむ」可能性が激減する。思想信条ではなく合理性の話だ。
「助けて」と乞われて、「たぶん、助けられるだろうな」と思えるようになると、やはり心が軽くなる。生きた人間には「知識」や「知恵」があり、これが欲望と結び付いて硬直していることがあるが、幽霊にはそれが無い。