◎信じる者には変化が起きる(557)
時々、自然水(湧水)を摂取し、体内からカルキを抜く必要がある。健康な人なら問題は少ないのだが、そこは持病を持つ者だ。小さな要因が重い結果に結びつく。
「庚申の湧き水」でポリタンク一杯に水を汲み、車に積もうとしたのだが、先日、灯油タンクを持ち上げる時に痛めた背筋を再び痛めてしまった。
今度は激痛だ。
長年の運動不足がたたり、筋肉、とりわけ体幹が弱くなっているのだが、そこを直撃してしまったわけだ。
「イテテテ」
息をするのも辛くなる。
帰路にいつもの神社の近くを通ったが、駐車場には車が沢山入っていた。
松の内を過ぎたころに来て、新しいお札を拝受する人が多いわけだ。
「背中も痛いことだし、混雑気味だから、今日は通過して家に帰ろうか」
入り口をスルーして通り過ぎたが、少し行ったところで、思い直した。
「もし残りの人生があとひと月以内だったなら、何事も『次の機会』はないよな」
これからはひとつ一つが「今生の最後」だと思って行動することが必要だ。
そこでもう一度引き返し、駐車場に入った。
最近、駐車場を広げたので、車を置くスペースは、割と沢山あった。
だが、百㍍歩くのもしんどい状態だから、そこから神殿前に着くまでは、割と長く掛かった。途中で沢山の人に追い越されて行く。
頻繁にここに来るのは、勿論、私自身の状態を確かめるためだ。
私が自分を「かなり幸運だ」と思うのは、自分がどのような状態かを目視して確認出来ることによる。
悪縁が寄り付いたり、危機が迫っている時には、それを告知してくれる存在がある。
何事も、早期の手当てほど、効果が大きいものはなし。
さんざこじらせてから、「困っているからどうにかしてくれ」と叫んでも、もう遅い。
「自力で対処出来るうちに手を打つ」のが基本になる。
二枚目の画像では、私の背後に坊主頭の男の姿が見える。
これはウェブ画像ではほとんど確認出来ぬと思うから、他の者にとっては私の「想像や妄想」に過ぎない。
既に数多くの幽霊を取り込んでいるから、魔物化が進行しているようだ。
「入道」と符牒を振って置く。
こういうのは、私には問題なし。何故か先方が「自分と同類」だと見なすようだ。
実際、ある意味ではその通りと言える。
拡大すると、すぐ隣に「女」がいるようだ。どこかで見たことがあるようだが、画像が不鮮明で、トーンを替えてもよく分からない。
三枚目、四枚目には、オレンジ色の光が縦に入った。
ガラス継ぎ目のエッジに光が反射したのかと思ったが、継ぎ目の中央に走っているから、フラッシュ光が反射したものではないようだ。そもそも、途中でピタッと止まっているから不自然だ。
だが、こういうのは磁気異常のある、いわゆるパワースポットではよく出るものだ。
磁気異常や放射線異常は、電磁波やメモリに一時的な障害を発生させる。
拡大して確認すると、やはり画像に歪みが生じていた。とりわけ、右側の男性は、ガラスの継ぎ目の左右に二重に映っているのだが、サイズを調整しても合わない。画像自体が違う。
念のため、最初の画像をさらに拡大すると、煙玉状のものなど、違和感を覚える箇所があるようだ。他にも数枚撮影してあるので、人物にABと振って、画像の順番通りに位置を追って行くと、その人がどういう姿をしていたか(服装や髪形など)を特定出来る。
どうもこの列には、一人(か二人)の人影が余分に写り込んでいたようだ。
こういうのは動画で永写しをすれば記録出来ると思う。
ただ、現段階ではあくまで「ではないか」という程度だ。
ここはやはり「想像や妄想」の域になる。
帰路に気が付いたが、今年は松の内を過ぎてから、屋台出店を認めたらしい。
南側の駐車場スペースが「屋台村」になっており、そこに幾らか人が集まっていた。
車が多かったのも、この影響があるわけだ。
年明けなら、さらに混雑していただろうから、この神社の判断は適切だったと思う。
家に着くやいなや、息子に「背中に湿布薬を貼ってくれ」と頼んだ。
背筋痛が酷くなり、立っていられなくなったのだ。
「右側の肩甲骨の下辺りから、腰の近くまでの一帯に五六枚貼り付けてくれ」
そう告げた瞬間に、数日前のことを思い出した。
「右側ってのは、ちょうど「手」が掛かっていた辺りだよな」
そう言えば、最初の画像の「魔物」の隣に「女」がうっすらと出ていた。
思わず手を打つ。
十三、十四、十六日の画像を並べてみると、ひとつの筋が出来上がる。
「痛み自体は筋肉痛なのだが、それを助長し拡大されているかもしれん」
そこで二階に上がり、お焼香をした。
「貴女は自身がどれほど苦しかったかを伝えたいのだろうけれど、生きている人間に関わろうとしてはならない。過度に関わろうとすると、やはり切り捨てることになる。元の状態に戻るのと、これからずっとお焼香をして貰うのと、どちらが良いかは簡単だろ。二三日以内に離れてくれ」
これが最後通牒になり、期限が来れば「ご神刀」の出番になる。
実際、私の後ろには、常時、五から十幾つの人影が立つのだが、今は「手を伸ばしても届かぬ範囲」だから、それほど気にならない。
お清めの塩を振り、暫くじっとしていると、まさに「たちまち」背筋痛が小さくなった。
筋肉を物理的に痛めているので、痛みがゼロにはならないが、普通に歩いたりする分には問題なし。
こういうのは、過度に拡大解釈されがちなので、あまり書きたくないのだが、現実に起きている。
やはり「信じる者には変化が起きる」ようだ。
嫌というほど繰り返し書くが、「信じる」ことは「願う」こととは違う。
具合が悪くなったからと言って、神や仏を拝み始めてももう遅い。
それは自身の欲求の充足を「他の者に頼る」だけだ。
最後に幾つか注意事項を記す。
1)老・病・死は必然。人により異なるし、幾らか時期がずれることがあっても、必ず来る。
2)病気の原因は、「身体そのものの不調」、「気の乱れ」が中心になる。あの世(霊)が直接関わることはほとんどない。
時々、何でもかんでも「悪霊の仕業」のせいにする人がいるが、ナンセンス。
霊(幽霊)が人に関われるのは、心の持ちようや一時の感情だけ。
例外はごく僅か。
病気そのものを瞬時に治してみせるのは、悪縁によることの方が多い。
なお「気」は世間一般的に用いるものとは異なる。あの世の最初の段階が「幽界」だが、この中心は「霧(幽界の霧)」で出来ている。生きている者にもこの「霧」があり、体の周りを循環している。この循環のことを指す。
ところで、湧き水を煮沸し、コーヒーを淹れて飲み始めたが、即座に下痢が始まった。
経験的には、これは「良い変化の兆候」になる。
一日か二日で下痢が治まり、あとは調子が良くなる。
悪縁が抜ける時にも同じことが起きるのだが、関りがあるのかどうかはよく分からない。
付記)
●気が付くと、今回は「電線」が出ていない。採光や角度は前回、前々回と同じ。
●相手(幽霊)がどのような者かについては、総てが「想像や妄想」の域だ。
ところが、その判断内容がどうであれ、「きちんと認め、ご供養をする」ことで、慰められるものらしい。やはり「頭で考える」理屈とは違うようだ。