第1話 よろずの姫の物語 (渋民村:現盛岡市の伝説)
渋民村大字渋民にお稲荷さんがある。そこは昔、舘であって、平ノ庄司家次という長者が住んでいた跡ということである。これは、その稲荷にまつわる昔話である。
今は昔。沼田屋清吉という人の家に、よろずの姫というお姫様が宿をとっておられた。
ある時何かの用で外へ出られたお姫様を、当地の長者である平ノ庄司家次がたまたま見ており、「私には子どもがないから、ぜひ姫様を娘に欲しい」と申し出た。
姫様はその時、相次いで両親を亡くしたところであったから、頼るべき者を持たない。
このため、姫様はこの平ノ庄司の申し出を承諾し、その家の娘になられたのである。
ところが、ちょうどその頃沼宮内に大蛇が出て、その辺を荒らし大そうな被害をもたらした。これはどうにかしなければならないということになり、近在の長者たちが集まって相談をした。
その結果、1年に1人ずつ、若い娘を人身御供として蛇に捧げることに定め、くじを引いたところ、たまたま渋民の長者・平ノ庄司家次にあたった。せっかく娘にしたばかりの、そのよろずの姫を人身御供として差し出さなければならないことになったので、長者は涙を流しながら姫に事情を話したが、姫はこれも宿命と思い、人身御供となることを承知なされた。
それから幾日かが過ぎ、いよいよ出立の日の朝となった。姫は白装束で輿に乗り、平ノ庄司の屋敷を出られ、途中、かつて身を寄せていた沼田屋の前を通りかかった。
姫様は、沼田屋清吉が身寄りのない自分を家に置いてくれた上に、何くれとなく面倒をみてくれたので、礼を言うためにしばし留まるよう、供の者に伝えた。
輿を降り、沼田屋の前に立つと、中から清吉が走り出てくる。姫様は清吉の両手をとり、はらはらと涙をこぼし、こう言った。
「私は今このようなことになり、ここを発つことになりましたが、爺様のことはけして忘れません。たとえどんなことになっても、この家が末永く続くようにお守りしますので、この家の方でも、かつて私がよく過ごしていた裏庭の辺りを、年に一度は拝んでくだされば嬉しゅうございます」
それから、二人で家の裏へ行き、姫様がよく立っていたところに、御印として柳の枝をさした。
沼宮内に着かれた姫様は、大蛇の出るところに座り、一生懸命にあらゆる経文を唱えて居られたところ、天から紫の雲が下りで来て、大蛇が現れた。
姫様がさらに心を込め一心に経文を唱えると、目の前の大蛇はいつの間にか、壮年の男の姿に変わっている。
「私は邪慳の罪により浅ましい蛇の姿に変えられ、これまで長い間もがき苦しんでおりました。しかし今、貴女様が有り難い経文を唱えてくださり、そのご功徳で邪な念から解脱することができました」
男は晴れ晴れとした表情でそう言うと、紫の雲に乗り、天に昇っていった。
この地を悩ませた大蛇の害は、これを機にぴたりと止んだ。
一方、姫様は渋民へは帰られず、御堂の方へ行かれた。今の御堂の観音様は、そのよろずの姫様をお祀りしたものだという。
渋民では今でもその沼田屋漬吉の家が続いて居り、年に一度の御縁日には家の者が欠かさず御堂の観音様にお参りをするという。
よろずの姫様が御印にされた柳の枝は、その後畳四畳敷く程の大木になったといわれでいる。それからずっと後、渋民に大火が起り、町一帯が丸焼けとなった時、この沼田屋清吉の家だけが残ったと言われている。これは、大火が起きた際に、黒い衣を着た小坊主たちが沢山現れて、沼田屋の屋根の上で火を防いでいたからだということである。
その小坊主たちはきっと観音様の御弟子さんだったのだろうと、後になって皆が噂した。
なお、よろずの姫のご兄弟は五人で、稗貫郡の太田の観音様、紫波郡見前の観音様、岩手郡の御堂の観音様、二戸郡浄法寺の観音様で、最後の1人の方は男の子であった。
ずっと後になってからの話だが、この男の方を沼田屋清吉の家では板垣大明神に祀り、御堂の観音様のおそばに祀ったそうである。
はい。どんとはれ。
<一口コメント>
渋民の中心には沼田家が実在し、代々米屋を営んでいました。文中の「今」というのは明治時代のことですが、現在に繋がる「生きた伝説」の1つと言えるでしょう。
しかし、「邪慳(じゃけん)」とは、「邪慳に扱う」の「じゃけん」で、他人の心に全く配慮せず自分勝手に振る舞う罪の事を指します。それが蛇に姿を変えられてしまうほどの大罪なら、現代人の大半は蛇になってしまいます。
出典:岩手県教育会岩手郡部会『岩手郡誌』(1941)より