日刊早坂ノボル新聞

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「史実」のどこまでが創作なのか

「奥羽永慶軍記」その他には、宮野城攻めの際に、「上方軍が政実に対し降伏勧告文を出した」と記されています。
そこでは、まるでその書状をそのまま写し取ったかのような文が添えられてもいます。
「奥羽永慶軍記」による降伏勧告文の概要は、次の通りです。

一筆申し伝え候。この度、大軍を引き受け、堅固な籠城の働き驚き入り候。然しながら、天下の敵を相手では、いかに戦っても本懐を遂げることはできないであろう。
やがて本城は押し潰され、家臣一同首を刎ねられること明らかであろう。
願わくば政実早く降参をして、天下に対し、全く逆心の無いことを京都に上って訴え申すべし。されば一門の郎党まで身命を助けられるであろうし、かつ叉、武勇の働きを認められ、領地知行せられるべく候。これによって案内申し渡す候。
恐惶謹言
九月四日
               浅野弾正少弼長政 堀尾帯刀先生吉晴
               井伊兵部少輔直政 蒲生忠三郎氏郷
 九戸左近将監殿 

おそらく、この記述はその大半が後世の作文だろうと思われます。
理由を端的に示すと、この時点では「浅野長政」は、まだ「浅野長吉」であって、長政にはなっていないからです。
あくまで言い伝えを基にしたものなので、人名は不正確でも仕方が無い、大意を伝えたものだとする考えもあるでしょうが、署名が違っているということであれば、本文についても推量の要素がかなり入り込んでいるはずです。
推量が「当て推量」に留まってくれればまだしも、この時代のことについては、「諸般の事情を鑑みて」作られた創作が多く、困ってしまいます。