日刊早坂ノボル新聞

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◎(「鬼灯の城」) 東彦八郎は誰?

◎(「鬼灯の城」) 東彦八郎は誰?
戦国時代の北奥には「東中務」が頻繁に登場します。
まず『北斗英雄伝』のHPより紹介文を引用すると、下記の通りです。

「東中務尉信義。初め直義とも伝えられる。後の朝政。通称は「中務」で東中務政勝の孫である。
南部晴継の暗殺後、信直が南部家を継承する時には、北信愛や東中務(政勝)らの尽力があった。東家はそれまで南部本家に若干の距離を置いていたが、政勝以後、要職に復帰する。
孫の信義は、忌み名として信直から一字を貰ったが、後に朝政と改名する。
信義は父親が早く死んだため、若いうちに中務尉の官職を得ていた。
天正末期ではまだ20歳代である。
古文書には「東中務」または「東朝政」と記されることが多いが、前者は祖父の政勝と紛らわしい(混同しているものが多数ある)。また朝政は後年の名である。おそらく信直との間に快からぬ思いがあり、信直の没後に改名したものであろう。」
なお、「信義」「直義」の呼び方は両方認められ、「直義」と書かれる方が多いようです。

さて、信義(直義=朝政)は、東家の正統な後継と考えられますが、この時期には、もう一人の東が名を残しています。それが「東彦八郎」。
「彦八郎」「彦九郎」は長男の名前ですが、この人物の詳細が分かりません。
面白いことに、信義(直義)と彦八郎が同時に出ることはほとんどありません。

九戸城包囲戦には東彦八郎の名が見えますが、信義(直義)はおらず。
また、信義(直義)は元々、祖父と混同されがちなのですが、これがいる場面では彦八郎はいません。
僅かに和賀・稗貫一揆の際に、鳥谷ヶ崎城が一揆勢に攻められた時、「三戸の守護に東中務朝政(=信義)を残し」、一揆勢を「東彦八郎らが百騎をもって」攻めた、とあるようです(『奥羽永慶軍記』『奥南指録』)。
これが江戸期に入ると、彦八郎の名はぴたっと消滅します。

東信義(直義、朝政)は二代もたずに断絶しますが、もし親戚であれば養子を貰うなり出来たはずなので、どうにも釈然としません。
私的には、「東家の後継」という意味で、同一人物ではないかと思います。
政勝と信義が混同される一方で、本来同じ人物である直義、信義、朝政、そして彦八郎が別人と見られているのかもしれません。

「東彦八郎」が登場するのは軍記物の中だけですが、軍記物は大筋以外は大半が作り話。
元がそうなのですから、小説の中では、完全に「東信義=彦八郎」と見切ってよいのかも。
現在、思案中です。