日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「稗三合一揆と八戸藩札」─見る者の見方で見え方が変わる─

古貨幣迷宮事件簿 「稗三合一揆八戸藩札」見る者の見方で見え方が変わる

 天保期から明治中期までの北奥の話を書いているが、「物事の見え方は、見る者の境遇や見る時の立ち位置で変わる」と思うことが多々ある。

 その一例が、八戸藩の野村軍記という家老が行った改革の評価だ。

 

 野村軍記は当初、五十石取りの下士だった。八戸藩は軍記を主法専務に登用して,文政2(1819)年から藩政改革に乗り出した。軍記の主な取り組みは、「江戸藩邸の経費節減」、「綱紀粛正」、「新田開発」、「特産品の移出」、「藩専売制の実施による商業資本の統制」など多岐にわたる。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用を西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。西町屋は、藩の御用商人である石橋家の屋号となっている。

 

 天保3(1833)年、八戸の四大飢饉の一つ天保の大飢饉「七年飢渇(けがじ)」が八戸藩を襲った。八戸藩では領知高2万石のうち1万1千石が損毛となる大凶作となった。六割減の有り様だったが、翌4年はさらに厳しく八割減にまで落ち、殆ど作物が収穫出来ぬ状態になった。

 4年には盛岡藩は九割減で八戸藩よりも損耗が著しかった。ただ、盛岡藩はこの対策として、鍋島藩から米二万石を輸入して米価調節を行なった。

一方、八戸藩では救民対策を何も行わなかったばかりか、藩財政の補填のために領民からの取り立てを厳しくしようとした。

 野村軍記は飢饉対策として「稗囲い制」を打ち出した。これは農民の一日の食事を稗三合と定め、残りはすべて強制的に買い上げるものである。買い上げに際しては、西町屋や美濃屋に銀札や預かり切手を発行させ、これを百姓に渡すものとした。

このような「百姓は握り飯を食うな」とする施策に百姓たちは当然反発した。

 天保5年1月に是川村で一揆が発生すると、直ちに久慈・軽米・嶋守に広がった。一揆勢は久慈街道を行進して八戸城下鍛冶町と周辺の村々に集結し、当初2000人だった一揆勢が八戸城下に至った時には8000人に膨れ上がっていた。一揆勢は藩側に二十一か条に渡る訴願書を提出し、稗三合一件の撤回を要求した。

 またこれとは別に二つの訴願を申し出たが、そのうちのひとつは、「野村軍記、これまで色々の諸過役を申しつけ、まこと持ち合いの穀物まで取り上げ、凶年違作に一粒の施しもなく、1日に1人稗3合の割り渡し、百姓こぞって嘆きまかりあり候間、同人を頂戴つかまつり、1日玄稗3合づつ食べさせ、田畑働きいたさせ、薪芝をとらせたい」とした。要は「同じ目に遭わせたいので引き渡せ」ということだ。

 もう一つは「寒中の中、野宿している者もいるので、町家で休息させ」で欲しいというものだった。

 これに対し藩では、鉄砲衆を配置し警備にあたった。その後も近隣の村々から農民が結集し、その数は2万人を超えた。持久戦となっていた直訴も12日になって、藩主への取り次ぎを約束、目付預かりとなりいったん落ち着いた。百姓たちは藩から食料として米10俵を与えられ宿泊先に引き上げた。

 百姓たちの要求は藩内で評議され、野村は「一揆勢を鉄砲で追い払うべし」と主張したが、家老の一人は、「天下は天下の天下なり。百姓も天下の民なり」として反対し、藩主に対し「この上、お迷いあそばされ候はば、重役一統退役申し、切腹いたすほか手立てあるまじ」と、野村の罷免を求めた。

 その結果は15日の夕方になって発表された。農民の要求どおり家老野村軍記は免職となり、専売制の一部は自由化となり、農民の労役、重税の一部は見直された(表1)。
 また、農民への資金の貸付け、他藩からの米の買入れなど飢饉対策がとられ一揆は沈静化した。

 

 と、ここまでが表向きに知られた野村の藩財政改革と「稗三合」一揆の顛末になる。

 これは概ね、百姓側の見地から眺めた歴史と言っても良い。

 だが、物事には別の視点がある。

 天保四年に、野村は新潟、大坂に出張して米を買い入れるが、これを領民には渡さず、一部をよそで高価に売って麦を買った。家臣には米給与の代わりにこの麦で支払った。

 百姓には、1合の米もわたさず、ただ1日1人稗3合を渡して、それ以外の穀物は供出させた(藩札で買い上げた)。

 このことを捉え、「野村が私腹を肥やすためにこれを行った」と見る向きもあるのだが、必ずしもそうではないようだ。

 野村は、藩の産物を統制し、領民から安く買い上げ、これを江戸や大坂に高く売りつけて、財政を潤した。また、八戸の名を高めるために、神社仏閣を壮麗にしたり、江戸の横綱を抱え、これを藩籍としたり、八戸の三社大祭で、騎馬打球を復活させた。

 言わば、総合的な復興施策と言っても良い内容だが、さらに天保5年は前二年とは違い、豊作だったので、幾らかの貯えが出来た。 

 ところが、天保6年から再び飢饉が始まり、類を見ない最大規模の飢饉となり、9年まで続いた。

 この時に、野村軍記の財政改革で蓄えられた資金が役に立ち、八戸領においては餓死者が数百人で収まった。

 同時期の弘前藩では、8万2千人に達する餓死者及び「欠け落ち(領外逃亡)者」が出たので、あながち野村軍記の執った政策も間違いではなかった、と言えなくもない。

 野村は強権を発動して、世人の反感反発を招いたが、断行せねば成し遂げられなかったという側面もあろう。

 まさに見ようによっては見え方が変わる一例だ。

 

 画像は、幕末期に八戸藩の御用商人が発行した「預かり切手」の類になる。

 穀物の買い上げに際し、「この札を押し付けて強制的に取り上げた」とされているが、現存数が極端に少ない。八戸は小藩で、明治初年には士族370戸、卒族(下級武士)200戸程度であったから、財政規模が小さかったことと、飢饉のため、買い上げる穀物の量自体が少なかった、ということか。

 

 八戸藩の対応が先行事例になったのか、天保六年には兄弟藩であるところの盛岡藩が、「七福神札」を発行し、当座の支払いに充てた。

 盛岡藩の場合は、銭とは引き替えぬとされたので、藩庁が強引にこれで物資の買い上げを行うと、札自体が宙に浮いた。領民の不平増大に伴い、藩は「質商は受取りを拒否出来ぬ」と定めたが、これにより、質店にこの札が殺到し、店がバタバタと潰れた。

 結局、この銭札は通用停止となり、「川原で焼かれた」と伝えられている。焼いた場所は仙北の小鷹近くだったと思うが、正確なところは失念した。

 

 「稗三合一揆」は、一揆勢が打ち壊しなどを行わず、穏やかな抗議行動を示したので、百姓に処罰が行われなかった。結果的に野村一人が責任を取らされ入獄した。野村の家は閉門となり、後には蟄居していたが、最期は切腹死したようだ。

 財政改革から一揆の始末まで、野村軍記独りが成し遂げた、と言っても過言ではない。

 隣藩の状況を見れば、野村は再評価されて然るべきだと思う。

 

 ちなみに、盛岡藩では天保飢饉の餓死者は「少ない」とされているが、もちろん虚偽で、江戸表には嘘の報告をした。

 雫石町HPによると、『管長太夫日記』では、「昨今御百姓共竈を仕廻り、仙台へ行く事夥し。旧冬十二月二十五里六日頃一日に竈数百軒参候由、右ニ付盛岡より留役人十二人御境へ遣され、指置かれ候趣。今に止むことを得ず参り候よし。大変なる事に候」と記されているそうだ。「餓死逃散なし」は虚偽の報告だった、ということ。

 

 これから私の記す物語は、専らその「盛岡藩の虚偽の報告」に関わるもので、八戸藩の野村の件はその前年の話で、ほんの数行触れるだけだ。八戸藩札の位置づけは、盛岡藩七福神藩札に深い影響を与えるので、事前に少し寄り道をした。

 

注記)一発書き殴りで、推敲や校正をしない。よって不首尾は多々あると思う。

 研究報告ではなく日々の雑感として記しているので、資料出所なども記載しない。

 

追記1)毎年のように「(自分の人生は)終わった」と確信する事態となっているが、昨年の苦境からは奇跡的に回復し、少しずつなら執筆が可能になった。もはや改善することはないので、今の状態が一日でも長く続くことを願う。二分の体力があれば、勝負にはなると思う。

追記2)藩札収集家は「三百文」という金種金額を、単なる種別として無感動に眺めるだけだが、当時の状況を重ね合わせると、様々なことが分かる。

 「稗三合」一揆で、百姓たちが求めた撤回要求の中には、「一石三百文御免願」があるが、これは米穀を一律に「一石あたり三百文で買い上げる」という決まりを止めて欲しい、というものだ。

 米一石は「大人一人が1食1合×3食×1年間で食べるお米の量」と定めたものだから、1石=2.5俵となり、1俵60キロで換算すると、150キロになる。これが三百文買い上げでは「とてもやってられない」という値段だった、ということだ。

 八戸藩は租税(年貢)とは別に、百姓の手元に残った米を根こそぎ集めようとした。

 さらに進んで、幕末の貨幣価値を測ると、幕末では、大工や賃金工の賃金が「日に1朱」相当であった、と言われる。1朱は定位貨幣の単位で言えば、銅銭250文であるから、一日の賃労働を仮に3万円とすると、「三百文」は3万6千円程度となる。

 令和5年の米10キロの市場価格は、平均で5千円弱であるから、150キロでは7万5千円だ。極めて大雑把な計算だが、おそらく「三百文」は米相場の「半値以下」だったと思われる。

 収集を分類までに留めると、「金種には三百文があります」で終わりになるが、途中のプロセスや意味を考えると、当時の人々の日々の暮らしや人生観が見えて来る。

 若手収集家に「収集など中高年になってからで良い」と言うのは、自分の生活の中での行動一つひとつの意味を考えることで、昔の貨幣価値を測る物差しが形成出来ることによる。知識として覚えることは、あまり実戦には役立たず、身の丈の暮らしの中で考えることの方が役に立つ。