日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「勇躍する花巻商人 及川屋清兵衛」その2

及川屋清兵衛 古文書・公用札

◎古貨幣迷宮事件簿 「勇躍する花巻商人 及川屋清兵衛」その2

 もはや十年近く前になると思うが、まだネットオークションが「がらくた市」だった頃に、鹿角地方で古い紙類がひとまとめに出た。

 画像を見ると、花巻の馬喰(牛馬商人)の持ち物だったものらしく、書状から公用札までがごったに入っていた。

 その中の一枚が目が留まる。

 「八戸馬代御調所」が発行した馬の「他領出馬願」という文書だった。その時点では内容がよく分からなかったのだが、咄嗟に勘が働いた

 「八戸藩は僅か二万石の小藩だった。三万石の一関田村藩や二万石の八戸藩は残っている公用札が極端に少ない」

  弘前藩は十万石の規模だということもあり、札類をあれこれ見られるが、御用商人の振り出した藩札の類でも八戸札は存在がごく希少だ。ええい。落札するまで行ってやれ。

 期間が短かったのと、これに気付いたのが数人に留まったせいで、首尾よく落札することが出来た。それなりの金額だったが、予定額の半分にも届かない。これはツイていた。

 品物を点検してみて驚いたのは、「札を振り出したのが、八戸の馬代や盛岡藩の牛馬御用所だった」ことではなく、これらが花巻の馬喰である及川屋清兵衛一人に対してだったことだ。

 花巻商人は、盛岡藩の中でも謎のジャンルで、たまたま別途、花巻川口町の商人札を入手していたから、余計に興味が湧く。及川屋も花巻川口町の商人だ。

 ちなみに、紙類のうち札類だけを取り出し、年号別に並べたのが画像冒頭の目次にあたる。概ね嘉永安政期が中心で、活動範囲は、七戸から八戸、果ては蝦夷地にまで及ぶ。鹿角地方は花巻城代の管轄であるし、志和には八戸藩の飛び地があったから、鹿角から七戸、そして八戸と繋がる商業ラインが出来るのは分かる。しかし、そこから馬の交易のために蝦夷地まで足を延ばしていたとなると、想像をはるかに超える。

 盛岡藩の馬産の監督は「牛馬目付」が行い、その地方出先機関が「牛馬御用所」だ。

 八戸藩の方は藩庁内の担当が「馬目付」で、その地方執行は「馬代御調所」が行った。八戸藩は早い段階で盛岡藩と分離したので、行政組織は各々独自の考えに拠っている。

 年号別に並べてみると、花巻馬喰・及川屋清兵衛のストーリを窺い知るようで、非常に楽しい。

 以後、幕末盛岡藩の激動の時代について、民間人の視点を中心に、盛岡藩の贋金づくりに絡めて物語化出来ないものか。そう考えて準備をして来たが、こういう資料調べには十年十五年はかかる。コロナのせいで二年半は止まっていたが、体調的にあまり待ってはいられぬ状況なので、個別の短いストーリーに分断し、書いていくことにした。

 登場人物は、この及川屋清兵衛、楢山佐渡、松岡錬治らになる。

 題名は『花のごと』の連作で、「花のように咲き、己なりの務めを果たして散る」と言う意味になる。楢山佐渡の辞世の句である「花は咲く・・・」にもかけてある。

 一番気に入っているのは、私以外にこれを書く者がいないことだ。

 

 さて、私には持病があり、来月この世を去っても不思議ではない。志を全うできるかどうかは私の背負う宿縁にかかっているわけだが、もし資料を抱えたまま死ねば、重要な情報が散逸してしまう。譲渡できる分については、地元を中心に勉強しようという志を持つ人に渡して行こうと思う。当初は寄付する予定だったが、昨今の経済情勢でそうも行かなくなった。ま、価値を見出し、研究するには、それなりの代償を払った方が良いと思う。本日以後、順次、ウェブにて売却の掲示を出す。

 

N01 八戸馬代 御調所 他領出馬願 嘉永六年)

 八戸領から外に馬を出す時に、馬代がこれを認可したことを示す。

 「七両二分」は馬一頭分の値段である。天保年間の「馬肝入帳」が残っているところを見ると、鹿角に及川屋の出店があったのかもしれぬ。

及川屋清兵衛 「馬肝入帳」

N02 松前 沖口役所 通行手形  (安政三年)

 及川屋清兵衛の記名があり、清兵衛が実際に松前に渡ったことを示す文書だ。

 津軽から蝦夷地には野生馬がいたので、その商いを想定したのだろう。

 

N03(七戸)牛馬御用所 上納請取 (安政六年)          

N04(七戸)牛馬御用所 久慈圓助 上納請取 (安政六年)

 七戸は藩主直轄地で、藩代官が赴任していた。久慈圓助は、七戸御判通代官の下で働く牛馬改役の一人。なお七戸の牧野は明治期に皇室に組み込まれ、三本木御料場となった。

N05 及川屋清兵衛より久慈圓助 宛 書状 (安政六年)

N06(七戸)牛馬御用所  菊池・松原 上納請取 (安政七年)

N07(七戸)牛馬御用所  上納請取(万延二年)

 及川屋清兵衛は安政年間を中心に、活発に馬取引を行っていた。

 記載内容と金額から見て、概ね調税の納付に関するものと見られる。N07は期間が詰まっており、金額も多額に及ぶ。

 時勢を反映し、馬が多頭数必要になっていたことを示す。

 万延二年(文久元年)はふた月だけ。前年には桜田門外の変が起きていた。

 軍隊の基本は馬だったろうから、及川屋が盛んに商いを行っていた。

 発見時の状況から察するところでは、清兵衛はこの時期に鹿角で死んだようだ。

 

備考)古貨幣のジャンルに跨るものとしては、N03、N04で、札(ここでは金札)としての形式が整っている。牛馬御用所札は存在数の少ない希少品だ。

 私にとってはN01の「八戸馬代」古札が資料的に一番で、実際、存在は数えるほどだろう。百姓が無断で藩境を越えると罪になるのだが、商人は割と簡単に許可が下りたものと見られる。商取引は国の基本だからそれもその筈だ。