日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

負けて腐らず

眼疾のため、日がな家にいることが多い毎日です。
何かをしようにも、眼が使えないのでは、動きが取れません。
我慢しきれず、左目一本でPCを操作し始めると、1時間も経たぬうちに限界が来てしまいます。
眼精疲労で、両目の視界が真っ白になってしまうのです。
(ま、「とにかく、今は休め」と言われているんだよな。)
そう自分を納得させて、家族のために料理を作り、気を紛らわせています。
「じくじたる思い」とはこのことです。
 
当事者の立場に近くなり、初めて八戸薩摩(政栄)の心情がわかります。
この八戸薩摩は戦国末期の北奥国主の1人です。
南部晴政が没した後、後継を誰にするかということで紛糾しますが、養子の信直と娘婿の九戸実親の他に、この八戸薩摩という案もありました。
晴政の死により、「家が断絶した」とみなせば、むしろこの八戸薩摩が最有力でした。
血筋を遡れば、逆に八戸が本家筋でもあります。
ところが、八戸薩摩は南部家後継への推挙に対し、これを固辞します。
これには、さまざまな説があり、自分の子の直栄も養子として迎えた者だったため、「自家の存続が危うくなると考えた」などが伝えられているようです。
 
しかし、よく調べてみると、八戸薩摩はかなり若いころから眼疾に苦しめられていたようです。
度重なる戦にも、自らは根城(ねじょう)を動かず、そこから指令を発しました。
親戚ながらも、血で血を洗う争いを繰り広げた櫛引一族が間近にいたということもありますが、政栄の一連の決断は、「眼がよく見えなかった」ことに起因しているのではないかと感じます。
目前の敵が見えないのでは、やはり戦国の騒乱を生き抜くのは難しいという判断があったのかもしれません。
ただし、眼疾で目が見えないかわり、薩摩は何手も先を読みました。
九戸戦の前後では、薩摩は熾烈な戦いを展開しながら、七戸家国の妻となっている娘の救命のために手立てを尽くします。
九戸党が滅した後、北奥には粛清の嵐が吹き荒れますが、なんと七戸一族だけは存続を許されます。
かなり早い段階から、薩摩が手を打っていたということだろうと推測できます。
この辺の駈け引きは実に興味深いですね。
薩摩は根城の庭に座り、果たしてどんな絵図を思い描いていたのでしょうか。
 
常在戦場。『勝って驕らず、負けて腐らず』です。
生きていれば、色んなことが起きる。
今は状況が固まるまでじっとせざるを得ませんが、どういう状況からでもあきらめなければ再起はできます。
そろそろ、立て直す心構えが出来てきました。